最近、消費税の軽減税率(主に「生活必需品」と思われるものに通常より低い税率を適用すること)の話題が盛り上がっている。「経済学者のほぼ全てが反対している」というから、実施する政府は何考えているのかわからないといった感想が聞かれるが、日本の政府は僕からすると何考えているのかわからない政策をたくさん実施しているので、軽減税率が導入されても特に驚かない。僕は逆に導入されなかったら驚くと思う。この手の、あまり考えなければよさそうに見える政策は常に実施されてきている。皮肉っぽく言うと、この手の政策を好む国民の代表が政府なのだから、実施されないほうが驚きだ。
では、なぜ、経済学者のほぼ全てが皆反対しているにも関わらず、実施されようとしているのか。それは、導入しないことの負の効果がわかりにくいからだと思う。軽減税率を実施した結果追加的に発生する財政負担が、他の増税、あるいは何らかの財政支出の削減という目に見やすい形であらわれない限り、「税負担が少なくなるんだからいいじゃん」という論理には勝ちづらい。
消費税が所得税に比べて経済の効率性に与える悪影響が小さいという議論は、経済学者にはわかりやすいが、特にちゃんとした経済学の論理で損得を考えることに慣れていない国の政府・国民を説得するのは難しい。僕ら経済学者はこのようなわかりにくいメリット・デメリットをうまく数字化する(あるいはもっとわかりやすく説明する)技術を磨く必要があると思う。
では、軽減税率を実施して財政収入が減少した結果、将来の公的年金からもらえる金額の減少としてあらわれると考えても、そのような脅威が理解されるようだったら、財政の状況は今のようにはなっていないはずである。それに、軽減税率が実施されると、そのしわ寄せが将来の年金受給額減少になるので、軽減税率は若年世代から高齢世代への所得移転だよといったところで、ある一部の人が得をする政策である限り(しかも損をする人の損は先の話なので理解しづらい)、絶対に悪い政策だというには説得力に欠ける。
一般的に、大体の政策は国民の全員が得をする(あるいは損をする)ものではなく、勝者と敗者を生み出すものなので、「この政策は絶対に悪い」と言い切るのは難しい。全ての人が得をするような政策はもちろん実施されるべきなんだけれども、おそらくそういう政策は実施されているか、何らかの理由で実施不可能だと考えるのが自然なので、そういう政策のみに注力していると、現実的には何の役にも立たないことしか考えられなくなってしまう。
そういうわけで、最近のマクロ経済学では、何らかの「社会全体の厚生」を選んで、それを改善するにはどうしたらいいかという考え方をしている。例えば、社会の構成員全員に同じウェイトを割り当てるのが一例だ。この場合、ラフな言い方をすると消費が平等に近づけば近づくほど「社会全体の厚生」は改善するので、「結果の平等」を重んじる立場とも親和性が高い。但し、このような政策を実施すると、たいていの場合、経済に非効率が生じる(わかりやすいい方をするとGDPが縮小する)ので、このようなフレームワークにおける分析は、経済学で最も重要なトレードオフ(のひとつなのかな)である「平等と効率」のトレードオフに直面することになる。マクロ経済学者がやっているのは、ある「社会全体の厚生」の定義のもとで、「平等と効率」の間のバランスがうまく取れた政策を考えることとなる。もちろん、社会的厚生が改善しても、その裏には勝者と敗者がいるのが普通なので、このようなフレームワークの元で考えられた政策というのは必ずしも政治的に実施可能であるわけではない。そのような批判に対しては、ある政策を実施した場合モデルの中でどのくらいの人が恩恵をこうむるかを計算したりする。
脱線するが、何でもかんでも、低所得者や社会的弱者に対する支出を増やすのがいいと議論する人が多くて辟易する。もちろん、所得移転は重要であるし、弱者にやさしくするのはかっこよく見えるんだけれども、どんな政策もプラスとマイナスがあり、それぞれを冷静に比較したあとでやっぱり実施すべきというような議論がされて欲しいものだ。例えば、子供を育てやすいように財政的な支援を行うことだって、別に必ずしも「正しい」政策ではない。もちろん主張する人にとっては「正しい」政策なんだけれども、その「正しさ」は絶対的なものでは決してない。そもそも子供が多いこと(人口が多い)がいいことなのかもわからない。子供が育てやすいように財政的支援を行えば、その分(直積的あるいは間接的に)お金を失う人も裏で出てくる。もちろん表立ってこういう政策に反対すると冷たいやつだとおもわれていいことなしだからしたくないんだけれども、経済学者であれば、そういう態度がないと、信用できない。とにかく弱者に支援をという主張は素人にしてもらえばよい。
また脱線するが、自分は政策提言はしないといってストイックに決めるのもかっこいいのかもしれないが、個人的には、最終的には政策提言ができるような、人々の生活をよりよいものにする研究をしたいものである。もちろん、物事を理解する研究(経済学で言えば「positive economics」) も重要なんだけれども、それがいつまでたっても政策提言に結びつかない学問は、魅力を感じない。いわゆるニューケインジアンモデルが好きではないのも、政策提言に使えないような気がするからである。このモデルでは、例えば、金融政策を改善したときの社会的な利益はとてつもなく小さい。いくら良い金融政策への理解が進んでも、それによる利益が本当に小さければ何の意味があるのだろうか?逆に言うと、金融政策を改善することによる利益がそんなに小さいのであれば、世の中の人たちがこんなに金融政策に関心を寄せていることは理解しづらい。こういうことを考え合わせると、ニューケインジアンモデルというのは何か根本的なところで間違っているような気がしてならない。とはいえ、どうしたらいいんだといわれても、どうしようもないんだけれども…
収拾がつかなくなってしまったので、この辺でやめておく。
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