賃金が上がるときには失業率が低下するという関係が見られることが多い。フィリップスカーブといわれるものである。賃金(上昇率)と一般的な物価(上昇率)はだいたい一緒に動くことが多いので、失業率と物価の上昇率(インフレ率)の負の関係としてフィリップス曲線を理解している人も多いかもしれない。
ただ、流行の言葉を使うと、この関係は「相関関係」であり、「因果関係」はここからは読み取れない。言い方を変えると、どうしてこのような賃金上昇率と失業率の負の相関関係が見られるかを理解するためには、何かしらの仮説を立てる(モデルを作る)必要がある。この相関関係は比較的簡単な仮説で理解されてきている。何らかの理由(財政・金融政策による刺激も含む)で経済が好調になって、企業がもっと多くの労働者を雇いたいということになれば(労働需要の増加)、労働者の価格である賃金は需要の増加を反映して上昇していくことになる。そして、失業していた人はどんどん企業に雇われてゆき、失業率は低下していく。より多くの人が就職し、賃金も上がるということであれば、物への需要も増加し、物価も上昇していくと考えられる。更に、失業率がある水準より低くなると、景気が改善しても、失業率は下がらず、賃金・インフレ率だけ上昇してしまい、経済に悪影響を与えると理解されている。このような水準は自然失業率といわれる。
このストーリーで問題なのは、では、なぜ、現在の日本やアメリカのように、失業率はとても低いのに賃金上昇率はあまり上がらないのか、ということである。どちらの国も、失業率はかなり下がっているのに、賃金上昇率あるいはインフレ率が加速する気配は見えない。このような状況を鑑みるに、上のような単純なストーリーだけではダメなのではと考えることもできるであろう。
上の問題点を解決することができるかもしれない研究として、Moscarini and Postel-Vinayの一連の研究が挙げられる。彼らは、いくつかのデータに着目した。
- ミクロのデータを見ると、労働者の賃金が上がるのは、同じ企業に勤め続けている場合ではなくて、別の企業に移ったときである。つまり、賃金が上昇するには、経済が好調になって、既に働いている労働者がより賃金の高い職を見つけて移ったり、別の企業からより高いオファーをもらって移ったり、あるいは引抜きを防ぐため今働いている企業が賃金を引き上げる、という活動が活発にならなければならないのである。つまり、失業者が職を見つけるということと、賃金の動きは厳密にはリンクしていない。
- しかも、絶対的な人数で見ると、ある企業から別の企業に移る人の数の方が、失業している人が職を見つける数よりずっと多い。簡単な数字を示してみると、失業率が5%とすると、働いている人は95%である(働こうとしていない人は含めないでおく)。失業者は平均すると1ヶ月で25%の割合で職を見つける(これをUE率(Unemployment-to-Employment rate)と呼ぶ)ので、毎月職を見つける失業者の人数は5%*25%=1.25%である。就職している人で別の職に移る人の割合は平均して1ヶ月で2.5%くらい(これをEE率(Employment-to-Employment rate)と呼ぶ)であり、失業者が職を見つける割合よりずっと低い。しかし、母数が多いので、転職する人の割合は1ヶ月あたり95%*2.5%=2.4%である。よって、転職する人の数の方が絶対的な数では、職を見つける失業者よりずっと多い。よって、彼らの賃金の変化の方が、新たに職を見つけた失業者の賃金の変化より、全体的な平均賃金に与える影響が大きいと考えられる。
- 賃金上昇率とEE率あるいはUE率の相関をとると、EE率と賃金上昇質の相関の方がずっと高い。このことは、賃金上昇率に影響をより強く与えるのは、どのくらい失業者が職を見つけているかというよりは、どのくらい労働者が転職活動しているかであることを示唆している。
Moscarini and Postel-Vinayはこれらの事実に注目して、労働者が、失業しているときは低い賃金でもまずは働きはじめ、そのあとで別の企業から次々とオファーをもらって転職していくことで賃金が上がっていくモデルを構築し、そのモデルを様々な分析に使用している。
最初に述べた、失業率はかなり低いのに賃金上昇率(およびインフレ率)が上がらない状況も、彼らのモデルの枠内では新たな解釈が可能となる。景気が長くにわたって低迷した後の景気回復期では、労働者は低い賃金からまたゆっくり転職活動などをして賃金を上げてゆかなければならないので、失業率が低いとしても、それは、経済が過熱する(そしてインフレ率が上がる)ことを示唆しているわけはなくて、まだ経済がゆっくり回復しているということなのかもしれない。言い換えると、長い景気低迷の後では、低い失業率をもって、財政・金融政策によって更に経済を刺激する余地がないということにはならない、という解釈もできるかもしれない。
特に、最近、アメリカは、EE率が長期的な低下傾向にあるので、彼らのモデルによると失業率と賃金上昇率の負の相関が弱まっているという解釈も可能である。Moscarini and Postel-Vinayが日本について議論しているかわからないし、日本のデータはよく知らないけれども、もし日本で、EE率がかなり低い、あるいは低下しているとすると、日本では更に失業率と賃金上昇率の負の関係が弱まっているといえるかもしれない。労働市場が硬直的で、転職活動が活発でない、あるいは失業や賃金の低下を恐れて労働者が余り活発に転職活動を行わないというような状況であれば、失業率と賃金上昇率(そしてインフレ率)のリンクを弱める効果もあるかもしれない。そういう状況では、もしかしたら、失業率が低いからといって、もう景気を刺激する政策は打ち止めすべきという単純な議論は成り立たないのかもしれない。
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