ちょっと力の抜けたポストを。ちょっと前に書いてお蔵入りになったもののひとつなんだけど、「経済学的に正しい」というフレーズはよくわからないと言うような話をtwitterでみて、公開することにしたものだ。マクロ経済についてしかわかってないので、他の分野には必ずしも当てはまらない。また、他の事を思いついたら書き換える可能性あり。
1. 「経済学的に」というフレーズを(文脈を限定せずに)使うこと。例:「経済学的に正しい」「経済学的な考え方によると…」。僕も経済学に特有で「経済学的に」という修辞を付けないといけないような議論はほぼない(あるいはするべきでない)と思う。たいていは、「使っている人が信じているモデルに基づくと」みたいな意味で、「経済学全体で共有されているモデルに基づくと」ではないと思う。
2. 「主流派経済学」、「合理的期待」、「ワルラスの法則」、「合理性」、「セイの法則」、「ホモ・エコノミクス(経済人)」といった言葉を(文脈を限定せずに)普通の文章で使うこと。個人的にはホモ・エコノミクスなんて(笑)を付けないと使えない。たいていは、経済学を批判する時に使われるんだけれども、こういう言葉を使って批判する人はたいてい最新の経済学についてよくわかっていないと思う。
3. マクロ経済モデルの「均衡」という言葉を、全てのマーケットがクリアされているという意味で使うこと。これも、多分、1980年代くらいまでのマクロ(シンプルなRBCモデル)で知識が止まっている人によく見られる。これと似ているものとして、「均衡」は長期的に到達されるものであり、短期的には経済は均衡から離れる(でも長期的には戻る)見たいな使い方をする人もいるが、これは古い話だと思う。
4. マクロ経済学が、バランスシート効果を軽視していたり、金融部門の役割を軽視していたり、みたいな議論。もちろんシンプルなモデルではこれらが重要でなくなりがちなんだけど、たいてい「主流派経済学は(ふにゃらら)を無視している」見たいなことが書かれている場合、ちゃんと探せばそういうことは分析されていることが多いと思う。(ふにゃらら)が重要だとしたら、それが分析されずにおいておかれるほど経済学界は非効率的ではないと思う。
5. 経済学を物理学(他もあるかも)と比較する。これも、たいていは、「経済学は物理学と違って数学が厳密でない」とか「経済学は物理学からもっと学ばなければならない」みたいな批判的な文脈で使われることが多いと思う。実際、経済学はいろいろなツールを他の分野から借りて発展してきているのだけれども、物理学がものさしとなる理由はないんじゃないのかなぁ。
6. これと同時に起こりがちなのは、モデルを現実に近づけるため、データと合わなければモデルは無意味だみたいな考えの人も多い。(部分均衡)ファイナンスのようなことをやっている人がいいがち。モデルをどんどん複雑にしたり、いろいろなアドホックな仮定を置くことを許容する。そういう巨大アドホックモデルの失敗の反省も1970年以降のマクロ経済学の背景にあると思う。
7. 直近のある限られたデータを見て、採るべき政策などを語ること。経済学者よりデータの解釈に優れたひとはたくさん要るんだけれども、それらの人がデータから導き出す経済政策の処方箋も優れているとは限らない。たいていそういう人は、今期のGDP(あるいは消費)の成長率が落ちたから、拡張的財政あるいは金融政策が必要だ見たいなことを言う。最適政策の議論はそんなに簡単なものではない。
8. (文脈を限定せずに)「望ましい」あるいは「最適な」経済政策が一つしかないかのように話すこと。こういう人は大体自分が「最適」だと思う政策を言っているだけだと思う。多くの場合、「最適」な政策はある条件化でのみ成り立つ議論であるし、何が「最適」かは誰にとっての最適を考えるかで異なることが多い。
9. 相関しか示さずに、そこから自分の都合のよいように因果関係を導くこと。まぁ、これは、説明不要では。
10. 行動経済学が「標準的な」経済学と対立関係にあり、「標準的な」経済学を置き換えるもののように主張する人。これは人によって考え方が違うと思うんだけど、マクロ経済学というものを行動経済学が置き換えるなんてことはない。不確実性の回避や直近のものを重視しすぎるバイアスを取り入れた「標準的な」マクロモデルなんていくらでもある。多くの場合、「行動経済学」的なものというのは、マクロ経済のフレームワークの中で、選好の仮定を変えたりしているだけで、マーケットの構造に関する仮定を変えたり、賃金の決まり方に関する仮定を変えたりすることと同じだと思う。
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