Health Insurance and Retirement Behavior

広義のマクロ経済学では、(1)マイクロデータ(特にパネルデータ)の充実と、(2)家計(あるいは個人)の行動のさまざまな側面をうまく捉えることのできるモデルの発展、および(3)コンピューターの処理能力の向上に伴い、家計(あるいは個人)の行動をモデル化し、そのモデルをマイクロデータを使って推定することが盛んに行われている。特にアメリカでは、高齢者・退職者の行動の分析においては、HRS(Health and Retirement Study)というデータセットがしばしば用いられている。ヨーロッパでもHRSのヨーロッパ版ともいえるSHAREというデータセットが2004年以降整備され、アメリカのような高齢者・退職者の行動についての研究の発展に役立つと期待されている(日本にはHRS相当のデータセットはあるのであろうか。SHAREに参加できたりとかしないだろうか)。しばらく前に紹介したDe Nardi, French, Jones (2009、以下DFJと呼ぶ)はHRSを使ったよい例である。彼らは、退職者の貯蓄のうちどの程度が、将来の医療費支払いのための準備のために保有されているのかを分析した。

今回紹介するFrench and Jones("The Effects of Health Insurance and Self-Insurance on Retirement Behavior," Econometrica, 2011)はDFJの姉妹版である。French and JonesはDFJのモデルに医療保険と退職時期の選択を組み込み、医療保険(特にメディケア)改革が退職行動にどのように影響を与えるかを分析した。EconometricaにしてはMethodologyでない、「ちゃんとした」経済についての論文である。

では、まず最初に、アメリカの医療保険についてざっとした紹介をしておこう。最近よく騒がれていたので聞いたことがあると思うが、現時点ではアメリカは自分で医療保険を手に入れなければならない。普通に買うとむちゃくちゃ高いので(このこと自体が均衡によって生み出されているのであるが)、多くの人は会社から保険を提供してもらう。医療保険を安く手に入れることを主目的に働いている人も多い。一方、65歳以上の人は(10年以上働いて、このプログラムに税を支払っていれば)メディケアという保険が政府によって提供される。細かいところは省略するが、この65歳という年齢制限によって、65歳までどうやって医療保険をキープし続けるかというのが、特に早く退職したい人にとって重要な課題となっている。

では、会社からはどのような条件で保険が提供されているのであろうか。French and Jonesによると3つのパターンがある。
(1)働き続ける限り医療保険が維持される。加えて、(一定期間働けば)退職後も65歳まで保険が会社によって提供される
(2)働き続ける限り医療保険が維持される。退職すると18ヶ月程度(会社によって異なる)までは保険が提供されるが、その後は医療保険は提供されない。
(3)まったく医療保険が提供されない。

もし、医療保険が退職の時期を決める重要な要素であるならば、(1)の人は早く他のグループより退職し、(2)は早くても63-64歳ごろに退職する、(3)の人は65歳まで退職しない、はずである。

但し、物事はそんなに簡単ではない。それぞれのグループの人がどの程度自分の資産を保有しているかとか、公的年金がいつから受給できるかというのも、退職の時期を決める重要な要素である。アメリカでは、(a)働いている年数が35年に到達するまでは、働けば働くほど公的年金の受給額が増加する、(b)公的年金は62歳以上からしか受給できない、(c)70歳までは受給開始年齢を遅らせれば遅らせるほど1回に受け取れる金額は増加するが、一生に受け取れる(予想)合計金額は65歳でピークに達するので、65歳以降に受給開始を遅らせるのは一般的に得策でない。

では、医療保険と公的年金を両方考慮に入れると、一般的に(1)-(3)の医療保険を提供する企業に勤めている人はどのような退職行動パターンをとるであろうか?おそらくは以下のようになることが予想される。
(1)平均的に(2)のグループよりは早く退職するものの、62歳までは待つ。
(2)65歳に多くが退職する。
(3)62-65歳で退職する。
著者らはこれらの特徴が実際HRSで観察されることを示した。特に、(1)のグループは62歳に大量に退職し、(2)のグループは65歳に大量に退職することがHRSによって示された。

ここまで読んでくれば、公的年金制度とメディケアの両方が退職時期に影響を与える事は容易に想像がつくであろう。French and Jonesの貢献は、実際にこれらの制度の変更が、さまざまなタイプの家計の退職行動にどのような影響を与えるかをシミュレーションできるモデルを構築・推定したことにある。いったんモデルを推定してしまえば、モデルを使ってさまざまな制度改革の影響をコンピューターでシミュレーションすることができるのである。

彼らのモデルにおいては、各個人は年齢、資産、健康状態、企業から提供されている医療保険のタイプ((1)-(3))、(働いていれば)賃金、公的年金の受給額、などの面で異なっている。それに加え各個人は、毎期毎期、ランダムに(年齢や健康状態に応じて)決定される医療費を支払わなければならない。企業から提供される医療保険あるいはメディケアが使えればこの医療費は部分的にカバーされる。また、各個人は毎期毎期(年齢と健康状態に応じた確率で)死ぬリスクがある。このような状況下、各個人は毎期毎期、いくら消費して、いくら貯蓄するかを決める。加えて、働き続けるか退職するかも毎期毎期決める。死んだ場合には、残りの資産は相続される。

French and JonesはこのようなモデルのパラメーターをHRSを使って推定した。彼らの推定したモデルは、どのようなタイプの個人がどのようなタイミングで退職するかという、上で述べたようなHRSの特徴をうまく再現できていた。

このモデルを使って、著者らはいくつかのcounterfactual experimentを実施した。その結果は以下のとおりである

1.公的年金の標準受給開始年齢(一生の受給額がもっとも多い退職年齢)を65歳から67歳に引き上げると60-69歳における平均的な勤続年数は0.076年増加した。

2.メディケアの受給開始年齢を65歳から67歳に遅らせると、60-69歳の間に平均して人は0.074年多く働くことがわかった。つまり、メディケアの受給開始年齢の変更が退職時期に与える効果と、公的年金の受給年齢の変更が与える効果は似たようなものである。言い方を変えれば、退職時期に影響を与えたい場合、公的年金制度を調整する代わりにメディケアの制度を調整するという方法もありうる。

3.退職後も65歳まで医療保険を得られる制度をなくして、皆退職したら18ヶ月までしか医療保険が得られない制度に変更した場合(個人がその制度変更に対して事前に行動を変えられない場合という注釈はつくが)、平均退職年齢は0.34年上がる。この結果は、先行研究で得られた値の中間であることは面白い。医療費の変動リスクを考慮しないで同じ値を計算した先行研究では、この値は0.1年であった。先行研究において医療保険が退職時期に与える影響が小さいのは、大きな医療費の支払いによって消費をスムーズにできなくなることのリスクを考えていないからだと筆者らは主張している。一方、リスクを嫌う個人をモデル化しつつも、自分で蓄えた貯蓄によって消費をスムーズにすることをモデルの中では禁じた先行研究(こうするとモデルが断然解きやすい)では、同じ数字は非常に大きい値であった。これは、自分で蓄えた貯蓄によってリスクに対処する(precautionary savings)をモデル化することの重要性を示している、彼らは主張している。

4.モデルによると、医療保険の価値の半分は平均的に受け取れる医療保険の金額から、残り半分は自分で払う分の医療費の振幅(リスク)を抑えられることから来ている。この点は、高齢者の貯蓄の主要な動機が医療費への備えだというDFJの結論と整合的である。

医療費のリスクが大きいということから、企業が提供する医療保険やメディケアが退職時に大きな影響を与えている、というのがペーパー全体からにじみ出てくるメッセージである。その意味で、DFJのスピリットはそのままに発展させたペーパーであるといえる。推定の方法はDFJと同じく、HRSを使ってSMM(Simulated Method of moments)をしているだけなので目新しさはないが、医療保険制度が退職行動に影響を与えるという新しいチャンネルを示し、その効果をモデルを使ってあらわしたというのが貢献なのだろう。それに加え、政策に関する思考実験も面白い。DFJのときにも書いたが、構造モデルはこのように使うべしというお手本のような論文である。

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