今回は気軽に書いてみる。David LevineがBehavioral EconomicsやExperimental Economicsを攻撃する本(Is Behavioral Economics Doomed?)を書き進めている。Levineなので自由にダウンロード可能である。行動経済学のファンではない人は多くいると思うが、気に入らない分野を批判するのは若手にとっては時間の無駄なので、Levineのような大御所が代弁してくれると助かる。
この本を元にしているプレゼンを一度聞いたが、行動経済学に走る前に頭を使え、というのが基本的なメッセージだ。彼が挙げている例というのは、このようなものがある。
よくprocrastination(やらなくてはいけないことを最後までぐずぐずやらないこと)は、「標準的な経済学」のもとではうまく再現できないといわれるが、そうだろうか?それは、行動経済学者が言うように、「標準的な経済学」が間違っている、わけではなくて、「標準的な経済学」の環境は、procrastinationを再現するようにセットアップされているないからではないだろうか。
例えば(よく使われる内輪の例だけど)、経済学者はレフェリーを頼まれたときに、ぎりぎりまでやらないのが一般的である。これは「標準的な経済学」の失敗を意味するのか?そうとはいえない。「標準的な経済学」の枠内でも、頭を使えば簡単に再現できるからである。レフェリーをやるのはコストがかかるとしよう。締め切りを大きく(締め切りの3ヶ月先くらい?)越えると大きな罰(あいつはちゃんとやらないと評判が悪化する)があるが、それまでは特に罰はない。レフェリーをするためのコストは先延ばしにすればするほど小さくなる(Discount rateが正)としよう。このような環境を仮定すれば、「標準的な経済学」で使われる消費者も「procrastination」を行うことになる。
別の例を挙げてみよう。会社で401(k)を利用することができるときには、従業員は会社のデフォルトの設定をあまり変えないことが知られている。デフォルトで給与の1%を退職後のための貯蓄に回すという設定ならそのまま多くの従業員は1%を貯蓄に回し、デフォルトが0%なら、多くの従業員は何も貯金しないことが多い。これは「標準的な経済学」の失敗を意味しているであろうか?その結論に行く前に、いろいろな理論が考えられる。例えば、退職後のための貯蓄制度は非常に複雑である。学ぶのにはコストがかかる。加えて、おそらくは企業はデフォルトで平均的な従業員の損にはならないことをしてくれているだろう、と従業員が考えるのもおかしな話ではない。このような状況では、従業員が企業任せにするのはおかしな話ではない。おそらくは、教育程度の高い(よって複雑怪奇な退職貯蓄制度を学ぶコストが比較的低い)従業員ほどデフォルトを変えるであろうことや、デフォルト大きく変えれば(例えば30%強制貯蓄など)おそらくは多くの従業員がデフォルトを変えるであろうと想像されることも、この理論と整合的である。
結局、これらの話で言いたいのは、行動経済学が提供するストーリーは数あるストーリーのひとつの可能性でしかなく、最終的には他のストーリーとの競争がなされなければならない、ということであろう。僕のように、古い頭の持ち主は、基本的なモデルで何かを説明できない場合、何らかのfrictionで説明できれば1流、技術をいじくれば2流、選好や期待をいじくると3流、というような教育をされてきたので、選好や期待をいじくると、マラソンで距離を大幅に縮小できる抜け道を使われたような気がしてしまう。もちろん、最終的には選好や期待を修正すべき、という結論になるのかもしれないが、そこにたどり着くには議論の積み重ねが必要である。Levineも例として挙げているが、habit formationは行動経済学的といってもいいと思うが、今や一般的に使われている。名目の貨幣保有量が効用を高めるという仮定(使わなくてもお金があれば幸せになれる!)は、個人的にはばかげてると思うが、広く使われている。今、行動経済学的というくくりで扱われているさまざまな仮定も、最終的にはいくつかだけが残り、「普通の経済学」の枠組みの中で「ちょっとかわった選好」として使われるようになっていくだけだと思う。
蛇足になるが、行動経済学的考え方がファイナンスとなじむというのは納得がいく。ファイナンスは、例えばマクロ経済学に比べて、ずっとデータとの整合性が重視される気がする。もし選好をちょっとといじくればデータとの当てはまりがよくなるというのであれば喜んで受け入れるという、ある意味柔軟さがあると思う。
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