所得再分配政策の効果の分析や、年金制度の分析、所得や資産の不平等の分析、あるショックが異なる人々にどのように異なる影響を与えるかといった分析、を するには、モデル自体にさまざな面で異なる家計(あるいは個人)を導入する必要がある。どのような「異質性」を導入するかは、どのような質問に答えるため にモデルを使用するかに寄るのだが、現代のマクロでしばしば使われるモデルとして、年齢、生産性(労働所得)、資産保有量、の面で異なる家計から構成され る一般均衡モデルがある。いわゆるBewley-Aiyagari-Huggett Model、あるいはこのペーパーではSIMモデル(Standard Incomplete-Markets Model)といわれるものである。このモデルは、多くの分析で重要となる異質性を含んでいること、に加えて、市場の構造が外的に与えられる(一番シンプ ルなモデルでは金利一定で貯蓄あるいは借り入れすることができるだけと仮定される)ので比較的解きやすい(とはいえ、普通はコンピューターのプログラムを 自分で書かなければ解けない)こと、基本モデルが解きやすいことからさまざまな面で拡張がしやすいこと、重要と思われるさまざまな面でモデルが現実をうま く描写できていること(そのこと自体が、即モデルが正しいことの証明とはならないが…)などの理由から、最初にあげたような分析においてスタンダードなモ デルとして用いられている。日本人も、MukoyamaさんやKitaoさんが活躍している分野である。
これらのモデルで一番重要なの は、市場が不完備(incomplete)と仮定されていることである。この言葉自体ジャーゴンなので例を挙げて説明してみよう。例えば、同じ会社で働い てる人が2人いるとして、会社の業績が悪いので明日1人がクビになるとわかっているとしよう。2人ともクビにはなりたくない。がどちらもクビにならない自 信があるわけではない。クビになったら明日の収入はゼロになると仮定しよう。この場合、マクロ経済学で使われる「通常の仮定」の元では、2人は、クビにな らなかった方がクビになった方に収入の半分をあげるという契約を結びたがる。こうすれば、どちらがクビになったところで、収入はクビにならなかった方の半 分になる。収入はクビにならなかったときより少なくなるけど、クビになった場合に収入がゼロになるという最悪の事態を避けることができるのである。上で書 いた「通常の仮定」とは、2人とも、クビにならなかったときに収入全部を自分のものにできるとしても、クビになって収入がゼロになるリスクを負うくらいな ら、半分の収入を、クビになってもならなくても確実に受け取れるという状況のほうを好むという仮定である。不完備市場という仮定は、このような契約を(本 当は結びたくても)結ぶことができないという仮定である。本当は結びたいのに結べないモデルはおかしいと考える人たちは、このようなモデルを離れて、結び たいけど結べない状況を生み出せるモデルを研究している。例を挙げると、クビにならなかった人が「半分収入を君にあげるの、やっぱやめた。」と言える様なケースでは、二人とも疑心暗 鬼になってこのような契約が結べないかもしれない。こういうモデルは複雑になって、モデルをさまざまな分析のために拡張することが難しくなるので、不完備市場のモデルの方が、複雑なモデルにおける政策の分析には主に使われている。
話を戻すと、市場が不完備(クビになった人がクビにならな かった人にお金を払うというような複雑な契約が結べない状況)でも、SIMモデルでは、クビになったときのダメージを和らげる手段が存在する。クビになっ たときに備えて貯金しておけばよいのである。収入はゼロでも、貯金が十分にあればクビになっても一時的には悲惨な状況をしのぐことができる。このような目 的の貯金は予備的貯蓄(でいいのかな、訳、Precautionary Motive Saving)と呼ばれている。あるいは、このような不完備市場では、自分で貯蓄をするしかリスクに備える方法がない(他人と協力してリスクを消すことが できない)ことから、Self-Insuranceとも呼ばれている。話をまとめると、SIMモデルでは、個々の家計は貯金をすることで自分だけでリスク に備え(Self-Insurance)、収入が時とともに上下するような状況でも消費の変動を抑えることができているのである。
ちなみ に、年齢の異質性がないSIMモデルで、市場を完備にすると代表的個人(representative agent)しかいない新古典派成長モデルに戻るという点で、SIMモデルというのは、新古典派モデルの1つの変種と捉えることができる。個々の家計がいろいろは複雑な契約を使うことができると、個々の家計が個人的に直面するリスクはすべてうまくヘッジされ、多くの異なる家計がいるモデルでも消費(および他の変数)は全員同じになってしまうからである。逆に考えると、 DSGEモデルのようなrepresentative agent modelというのは、SIMモデルから出発して、市場を完備にした結果として現れるモデルと考えることもできる。
ではSIMモデルは 「現実的」であろうか?モデルが現実的でなければ結果は何の意味もない(いわゆる「garbage-in, garbage-out」(モデルがクズなので結果は自動的にクズというペーパに対して使われる言葉)である)。モデルが「現実的」か否かを測る尺度はい ろいろ存在するが、予備的貯蓄によって達成される消費の変動の抑制度合いが、現実と近いであろうか?という質問に答えたのが、今回簡単に触れるペー パー(Kaplan and Violante, "How Much Consumption Insurance Beyond Self-Insurance," AEJ Macro 2011)である。モデルがデータと整合的かという質問に答えるには、まずはデータがなければならない。このペーパーがかかれるきっかけになったのは、 Blundell-Pistaferri-Preston (BPP)によるとても有名な最近のAERペーパー(2008)である。BPPのすごいところは、これまでは存在しなかった家計の消費と収入に関するパネルデータをいくつかのデータ セットをつなげることで作り出し、そのデータを使って個々の家計の収入の変動がどのくらい消費の変動に結びつくかを計算することができたことである。 BPPは個々の家計の所得の変動を、「恒久的変動」(働いている限りずっと影響のある変動)と「一時的変動」(1年だけの変動)に分けて、それぞれのタイ プの変動がアメリカにおいて消費にどれくらい影響を与えているかを計算した。BPPは所得の変動が消費の変動にどのくらい影響を与えるかを測る指標とし て、いわゆる「BPP係数」というものを提案した。BPP係数は0から1の値をとり、0は所得の変動がまったく緩和されずに消費にダイレクトに影響を与え る状態、1は所得の変動が消費にまったく影響を与えない状態を表す。消費の変動を抑えるという観点に基づけば、1に近い方が望ましい。BPPの計算による と、恒久的所得変動に対するBPP係数は0.36(所得の変動の2/3位が消費の変動に結びつく)、一時的所得変動に対するBPP係数は0.95(つまり 所得の変動がほとんど消費に影響を与えない)であった。
Kaplan-Violanteは恒久的所得変動と一時的所得変動のあるSIMモ デルにおいて、BPP係数がどのくらいかを計算した。まずは家計が貯蓄はできるけれども借り入れはできないと仮定しよう。その基本モデルでは、恒久的変動 に対するBPP係数は0.07、一時的変動に対するBPP係数は0.82であった。特に恒久的変動に対するBPP係数が低い。では、モデルとデータの乖離 を小さくするために何ができるであろうか?彼らはいくつかのモデルの拡張を行い、拡張されたモデルのBPP係数がデータに近づくかを試してみた。
ま ずは、家計が借り入れをできると仮定すると、恒久的所得変動に関するBPP係数は0.22、一時的所得変動に対するBPP係数は0.94まで上昇した。借 り入れができるということは、所得が低下したときに、貯蓄がなくても借り入れによって消費の変動を抑えることができるので、BPP係数は高くなって当たり 前である。彼らの実験の結果ではモデルのBPP係数はかなりデータに近づくこととなった。但し、このケースにおいては、データでは見られないくらいの巨額 の借り入れを許しているので、この結果を元に、借り入れを許せばモデルの欠点は解消されるとは必ずしもいえないと思う。
次の拡張は、恒久 的所得変動の少なくとも一部は事前にわかっているという仮定を加えたモデルである。(少なくとも昔の)日本の会社であれば、35歳で課長代理になってその ときは収入はXX円ということが大体想像がついたので、このような仮定は受け入れやすいであろう。多分アメリカであっても、例えば大学であれば、「7年 たったらテニュアをもらって所得は50%アップ」といったことがおぼろげながらわかる人も多いと思われるので、この仮定はそれほどおかしなものではない。 但し、彼らの実験の結果、長期的な収入の増加度合いを各家計が大体予想できるモデルでは、BPP係数はおかしなことになるとわかった。具体的には、25歳 の段階で60歳までの恒久的な所得変動の80%はわかっているケースでは、BPP係数は-0.31(マイナス!)、そのモデルにおける一時的所得変動に対する BPP係数は0.82(つまり基本ケースと変わらない)であった。なぜ恒久的変動に対するBPP係数がものすごく小さくなる(つまり所得の変動が消費にダ イレクトに反映するようになる)のか?例えば、60歳にはものすごい高給取りになるとわかっている人がいるとしよう。そういう人にとっては、所得が少ない 若いときもたくさん消費をすることが最適な行動となる。但し、借り入れは禁止されているので、将来所得が上がるとわかっているたくさんの人が、貯蓄ゼロの 状態で所得が増えるのを待っている状態となる。貯蓄がゼロであれば、恒久的所得変動によって所得が増えた場合、その所得をすべて使ってしまうのが最適、つ まり、所得の変動が消費の変動にダイレクトに反映される人が増えるのである。この拡張の分析によって、所得の長期的な動きの多くの部分が事前にわかってい るという仮定は、モデルのBPP係数をデータと近づける役にはたたないということがわかった。
基本モデルでは、所得の変動を「恒久的変 動」と「一時的変動」に分けたが、「恒久的変動」のかわりに、「長期にわたって持続する(けれども恒久的でない)変動」をつかったらどうなるであろうか。 収入の変動をモデル化するときには恒久的変動がよく用いられるが、それは、恒久的変動が扱いやすいからということもある。実際は、恒久的変動と長期的に持 続する変動の区別は難しい(もうすこしだけ正確に言えばランダムウォークとpersistenceの高いAR(1)の区別は難しい)。では、長期的に持続 する変動を入れてみたところ、その変動に対するBPP係数は0.35(例えばAR(1)でannual persistenceが0.95のケース)、そのモデルにおける一時的所得変動に関するBPP係数は0.81であることがわかった。前者については、 データから計算したBPP係数とほぼ一致した。これはある意味予測できる結果である。恒久的な所得変動を、持続的だけど恒久的でないものに変えるというこ とは、恒久的変動を一時的変動に近づけていくことと同じなので、BPP係数は上がっていく。もし、モデルのほかの部分が正しいとすると、モデルが生み出す BPP係数は、所得変動は恒久的ではなく、長期に持続的なものだということを示していると解釈することもできよう。
では、このペーパーの結果はどのように解釈できるだろう。2つの(近いけれども多少)異なる解釈ができると思う。1つは、モデル自体は大まかには正しいけれども、実際の家計は、モデルに入っていない、所得の変動が消費に影響を与えるのを防ぐ手段を持っているという解釈である。それは、労働時間をある程度変えられるからかもしれないし(時給が少ないときには長く働く、あるいは収入が低いときは2つ目の職を持つ)、親の援助かもしれないし、政府の援助(フードスタンプなどの低所得者向け所得補助政策)かも知れないし、家計には2人の大人がいて、一人の収入が落ちてももう一人が働いていることで相殺できるからかもしれない。もう1つの解釈は、著者らのモデルに入っていない重要な要素で、消費をスムーズにするのに役立っている要素があるというものである。「家」や家を担保にした借り入れを入れたモデルや、habit formation(一度生活水準が上がると下げるのが苦痛になるような仮定)を導入したモデルが、データのBPP係数を再現するために必要なモデルなのかもしれない。
このペーパーで使われ たモデルは簡単なモデルなので、ペーパーの中で行われていなかった拡張の余地が多大にある。そういう意味で、このペーパーは一時的な「流行」を生み出すと 思う。それに、今後SIMモデルの拡張が行われた際には、じゃあBPP係数はどうなっているんだ、と皆関心をもつであろう。そう いう意味で、このペーパーは今後非常に重要な位置を占めることになると思う。一般的に、SIMモデルのような使いやすいモデルがデータとより注意深く比較 され、データとの整合性により注意が払われるというのは、非常によい傾向であると思う。
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