行動経済学について詳しくはないけれども、おそらくは、流行の契機のひとつは、1990年代中ごろに始まるのDavid Laibsonによる一連の双曲割引に関する研究ではないかと認識している。双曲割引自体は1950年代から研究されており特に新しくはないものの、Laibsonは双曲割引を標準的なマクロモデル(ライフサイクルモデル)に組み込み、マイクロデータと付き合わせたことが新しかったのではないかと思う。データと付き合わせることで、双曲割引のモデルでは再現できて、一般的な指数割引(exponential discounting(ED)の訳はこれでいいのかな)のモデルで再現できないデータの特性などを議論することができるようになったのだ。
では、双曲割引というのはどのようにモデル化されるか?双曲割引というのは、その名が示すとおり、将来の幸福度(utility)を割り引く際に、標準的な指数曲線ではなくて、双曲曲線を使うことであるけれども、現在は、使いやすさから、quasi-hyperbolic discounting(QHD)というのが使われている。後で示すとおり厳密にはぜんぜん双曲ではないのだけれども、モデルの特性は双曲割引と近く、扱いやすい(特にrecursive methodと相性がいい)ので、QHDのほうが主に使われているが、QHDも広義のHDに含まれている。これ以降は、QHDをHDと呼ぶ。
では、もう少し厳密に定義してみよう。普通のモデル(指数割引)では、将来の幸福度を一定の割引因子(Discount factor)で割り引く。この一定の割引因子をbetaと呼ぼう。モデルは1年1期間として考える。今年おいしい寿司を食べたときに得られる幸福度をuとしよう。同じ寿司を来年にまわすと(寿司はもちろん腐ったりしないし、おいしい寿司はいつまでたっても同じようにおいしい)幸福度はbeta * uになる。2年後にまわすと幸福度はbeta*beta*uとなる。betaが1より小さいとすると、同じ寿司が先に延ばせば延ばすほど小さい幸福度しか与えてくれないこととなる。
上のグラフの青い線(ED, beta=0.96)は、一定の割引因子(0.96、マクロで標準的な値である)で将来の幸福度が割り引かれた場合、将来の幸福度がどのくらい小さくなるかを示したものである。30年後に寿司を食べるときの幸福度は今年食べるときの30%くらいに落ち込むことが見て取れると思う。この曲線はbeta^tなので、標準のモデルにおける割引方法は指数割引と呼ばれるのである。
では、双曲割引(厳密にはQHD)はどうちがうのか?QHDでは2つの割引因子が用いられる。さっきも使ったbetaに加えて、gammaというもう一つの割引因子を使う。この割引因子gammaは1年目と2年目の間でだけ用いられるとする。つまり、おいしい寿司から得られる幸福度は今年はuであるのが、来年はgamma*u、再来年はgamma*beta*u、3年後はgamma*beta*beta*uになるのである。これでは何がなんだかわかんないかもしれないので、グラフに描いてみる。ピンクの線(HD, beta=0.96)は前と同じbetaで、gamma=0.67を使ったものである。1年目と2年目の間で幸福度ががくっと落ちる以外は、指数割引のケースと同じく、スムーズに下がっていく。最初の年の割引に使われるgammaがbetaより(かなり)小さいので、ピンクの線は青の線より下に位置している。30年後のおいしい寿司は今年のおいしい寿司の約20%の幸福度しか与えてくれないことが見て取れるであろう。これぜんぜん双曲線じゃないと思う人もいるだろうが、僕からはなんとも言いようがない。
ここまで説明すると、双曲割引の面白い特徴を説明することができる。時間不整合性(でいいのかなぁ、Time inconsistencyの訳である)という特徴である。よくある例として、「禁煙」を考えてみよう。今2012年であるとする。2012年にタバコを吸うか、禁煙するかを考えている人がいるとする。上のグラフのピンクの線ような双曲割引で将来を考えているとする。gammaが小さいことから禁煙の苦しみは2013に回せばかなり軽減されるので、今年(2012年)はタバコを吸って、来年禁煙しようと考えるであろう。2013と2014の間の割引因子は大きい(beta)ので、再来年に回すくらいなら来年禁煙しようと考えてもおかしくない。
では、2013年になったとする。ちょっと不思議なことに状況は2012年とまったく同じとなるのである。つまり、今度は2013年と2014年の間に小さな割引因子(gamma)が使われることとなるので、2013年になると、2014年にまわせば苦しみは小さくなるから2013年は喫煙して2014年に禁煙することにしよう、ということになるのである。この状況は2014年になっても同じなので、結局ずっと禁煙できない結果となることも想像がつくであろう。
これをなぜ、時間不整合性というのか?2012年時点で、2013年に(あるいは将来のいつの年でもよい)やろうと考えていることと、2013年になってから2013年にやろうと思うことが変わらないのであれば、この人の考え方は時間整合的だという。上で挙げた禁煙の例は時間整合的でないのである。通常マクロで使われる指数割引は時間整合的な結果を普通生み出すのと対照的である。
更に面白い特徴として、頭のよい双曲割引の人が2012年の時点で2013年の行動を強制することができれば、強制したくなるということがある。前の例のとおり、2012年の時点では2013年に禁煙することが望ましいとする。彼にすばらしい友達がいて将来に何でもしてくれるとする。この場合、頭のよい双曲割引の人は2013年に禁煙しなければ殺してくれと頼むのである。この友達が信頼できれば2013年に禁煙しなければ殺されてしまう。多分死ぬよりは禁煙したほうがましなのでめでたく2013年に禁煙できるわけである。
もっと現実的な例(Laibsonの例)としては、「家」を考えてみよう。将来に向けて貯蓄したいのだけれども、誘惑に駆られていつもお金を使ってしまう人がいるとする。この場合、家が簡単に売ることができない(かつ、家を担保にお金を借りるのが難しい)のであれば、家を買うことで、将来の自分がお金(この場合は家)を使えなくすることができるのである。通常のマクロモデルでは強制的な退職貯蓄を喜ぶ消費者はいないけれども、双曲割引の人は強制的な退職貯蓄によって自分の消費を抑制できて、幸福度が高まる可能性がある。
では、本題にちょっとだけ触れてみよう。マクロのモデルで双曲割引は役に立つか?もちろん答えは時と場合によるのであるが、もっと焦点を絞って、双曲割引と指数割引のモデルでは大きな違いが生じるか、という質問を考えてみよう。もし大きな違いがあれば、どちらが優れているか(どちらのほうがデータと整合的か)を判断するのに使える。但し、この問いに対する答えは、例えば、シンプルなライフサイクルモデル(OLG)では「あまり違わない」となる。なぜか?上のグラフをもう一度見てみよう。青い線の指数割引のモデルとピンクの線の双曲割引のモデルを比べれば、青い線は常にピンクの線の上にあるから、指数割引のモデルの方が総貯蓄が多くなることはあきらかであろう。総貯蓄が違うというのは大きな違いである。但し、この比べ方は間違っている。なぜなら、双曲割引のモデルで指数割引のモデルと同じbetaを使わなければならない理由はないからである。それよりリーズナブルなbetaの選び方は、例えば、退職時点での平均貯蓄額がデータと同じになるようにbetaを選ぶという方法である。gammaは0.67に固定されているとしよう。この場合、同じbetaだと双曲割引の人は退職時の貯蓄額が小さくなってしまうので、双曲割引のモデルにおいては高めのbetaを選ばなければならない。上のグラフにはbetaが高め(0.98)の双曲割引の例も緑の線で描かれている。この場合、20年を超えたあたりからは双曲割引の人の方が将来の幸福度を大きく見積もるので、双曲割引の人の貯蓄は、指数割引の人の貯蓄に比べて必ず少ないわけではない。実際、この数字は、次回紹介するペーパーで、退職時点での平均貯蓄額が2つのモデルで同じになるように選ばれたbetaなのである。
このようにbetaを高めに調整した場合、gammaは依然低いけれども、双曲割引のモデルで貯蓄額が低くなるという特性はなくなってしまう。 gammaの存在が高いbetaによって打ち消されるのである。ライフサイクルモデル(OLG)であれば、何歳のときにいくら貯蓄するかが2つのモデルで異なる可能性はあるが、2つのモデルを比べると、結果はあまり違わないことがわかっている。更に、新古典派成長モデルを使った場合、ある特定の仮定の下では、2つのモデルは消費、貯蓄、労働時間、といった面ではまったく同じとなることが、Barroによって示されている。
では、双曲割引は役に立たないのか?シンプルなライフサイクルモデルをデータに当てはめるという意味では特に役に立たないのであるが、「役に立つ」場面はいろいろありうる。いくつか例を挙げてみる。
- もっと複雑なモデル(Laibsonが使った家のあるモデルなど)では2つのモデルの挙動が異なってくる。
- 見た目が同じでも政策や経済環境の変化に対する反応は違うかもしれない。そうであれば、例えば政策の変更に対してマクロ経済がどう反応するかを知りたい場合には、どちらのモデルを使うかは重要になる。
- 見た目は同じでも最適政策は異なってくる可能性がある。強制的な退職貯蓄が双曲割引の元では幸福度を高める可能性があることを上で述べたが、これが一例である。指数割引を使った普通のモデルではしばしば最適な資産課税はゼロであることが知られているが、双曲割引の元では貯蓄を奨励するためにマイナスの資産課税(つまり資産への補助金)が最適となるということを示した研究もある。
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