Macroeconomic Analysis of the U.S. Healthcare Reform

アメリカに引っ越した多くが戸惑うものの一つが医療保険制度だと思う。日本では国民の大多数が医療保険に加入できていて(国民皆保険制度)、医療保険についてあまり考える必要がない気がするが、アメリカはその反対のように思われる。アメリカでは、保険によって診察を受けられる病院が異なるし、何がカバーされるかが医療保険のタイプによって異なるので、どれに入るかを慎重に選択しなければならない。また、医療を受ける際にも、何がカバーされるかを医療保険会社と交渉したり、保険会社の力量によって医療費が変わってきたりするようだ。

オバマ大統領は、アメリカにも国民皆保険制度(に近いもの)を導入すべく、Affordable Care Act(ACA)を導入した。一般的に言われていることは、これがオバマ大統領の最も重要な貢献であり、これの導入のためにpolitical capitalを使い果たした(人気がとても高かったころに共和党(の支持者)の反対にもかかわらずACAの導入を強行したので、これ以降大きな政策は何も実現できなくなってしまった)といわれている。ACAはさまざまな要素から構成されているが、その主要部分は2014年から順に実施されることとなっている。

このような大きな改革はもちろんマクロ経済にも影響を与えることが容易に想像されるので、僕も興味を持っていたが、いかんせん、制度が複雑すぎて、どこから手を付けたらいいかわからなかった。しかし、最近ACAを分析したペーパーが出てきているので、いくつか紹介しようと思う。

簡単に整理すると、現在の(ACA以前の)アメリカの医療保険制度は次のようなものである。
  1. 企業が医療保険を提供する。もちろん企業は提供しなくてもよい(が提供している企業に比べて魅力が大幅に劣ることとなる)。企業の従業員全体で保険の価格は同じ(community rating)、つまり、企業全体で健康リスクをシェアすることになる。医療保険のプレミアムは所得税が免除される。
  2. 働いている企業が医療保険を提供していなかったり、働いていない場合は、民間の医療保険を買うしかない。民間の医療保険は、健康状態等の個人の特徴に応じて価格が異なっている。また、保険会社は、すでに健康状態が悪い個人などは加入を断ることができる。医療保険に入っていなくて、慢性の病気にかかったりすると大変である。
  3. 収入がある水準(以下で取り上げるペーパーによると連邦政府が定める貧困線(federal poverty level)の64%、貧困線は単身家庭の場合、2013年で年収11490ドル=約114万円である)以下であったりする場合にはMedicaid(低所得者向けの公的医療保険)を受け取ることができる。
これに対して、ACAの全要素が実施されるとすると、医療保険制度は以下のようなものとなる(以下で取り上げるペーパーによる)。
  1. すべての人は医療保険に加入しなければならない。加入しないと、年間695ドルか収入の2.5%の高いほうの罰金を払わなければならない。
  2. 50人以上の従業員を有する企業は医療保険を従業員に提供しなければならない。これに反すると、従業員一人当たり毎年2000ドルの罰金を払わなければならない。
  3. 州ごとに医療保険取引所が設立される。取引所で買うことのできる医療保険の値段は、(年齢を除く)健康状態等の個人の特徴に関わらず同じでなければならない(age-adjusted community rating)。また、保険加入前の健康状態によって保険加入を断ることはできない。
  4. 貧困線の133%を下回る収入しか得ていない人はMedicaidを利用することができる。収入が貧困線の133%から400%の間の人は医療保険を購入する際に補助金を受け取ることができる。
  5. もちろん医療保険の補助金が導入され、Medicaidを利用することができる人が増えるので、より多くの財源が必要となる。他の支出が大々的に削減されない限りは(多分そんなことは起こらない)将来的には所得税の増税などが必要となるであろう。
このような改革に対して、どのような分析が重要であろうか?最も注目を浴びているのは最初の取り上げる点だが、それ以外にもさまざまな論点があるだろう。いかに思いつくままに列記してみる。
  1. 財政支出はどのくらい膨らむか?追加的な財政支出を所得税でまかなうとすると、所得税はどのくらい引き上げられなければならないか?
  2. どのくらいの人が医療保険でカバーされることになるか?
  3. どのくらいの人が民間の保険を買うか?
  4. どのくらいの人がカバレッジが拡大したMedicareを利用することになるか?
  5. 医療保険をオファーする企業の数は変わるか?
  6. 50人以上の企業にのみ罰則が導入されることから企業のサイズに影響を与えるか?
  7. 労働者の生産性に与える影響は?その影響は労働者のタイプによってどのように異なるか?
  8. 労働時間に与える影響は?その影響は労働者のタイプによってどのように異なるか?
  9. 貯蓄に与える影響は?その影響は労働者のタイプによってどのように異なるか?
  10. 最終的にGDPに与える影響は? 
  11. 経済全体の効用に与える影響は?
 最近のREDに掲載された"Quantitative Analysis of Health Insurance Reform: Separating Regulation from Redistribution," by Pashchenko and Porapakkarmは、個々人の生産性が異なる(よって労働収入や貯蓄が異なってくる)スタンダードなOLGモデル(ライフサイクルモデル)に医療支出に関するショックを導入し(北尾さんが開発したモデルがベースとなっている)、ACAの導入によって、無保険者の数がどのように変わるか、Medicaidの利用者数がどのように変わるか、労働供給やGDPがどのように変わるか、どのような人々がACAの導入で恩恵(被害)をこうむるか、等について分析した。僕が知っている限り、ACAをマクロ経済モデルで分析したペーパーの中で最もモデルがスタンダードかつ分析対象が包括的だと思う。

モデルをもう少し詳しく解説してみよう。まずはACAがない状態からスタートする。モデルはOLGで労働者は25歳でモデルの中に「生まれ」65歳まで働き、最長で99歳まで生きる。労働者には、生産性が高いグループ(大卒以上)と低いグループ(それ以外)がおり、収入は前者の方が高い。学歴が同じでも、個々人の生産性には毎年ショックが加わるので、各労働者の生産性は毎年異なる。各労働者は毎年、ある確率で、企業から医療保険のオファーを受ける。この確率は生産性が高い人ほど高く仮定されている。労働者は企業で働き、医療保険を買うことにした場合、翌年に受け取る医療費の一部分が保険でカバーされることになる。医療費はランダムで、健康状態が良い(悪い)と低めになる。また健康状態が悪い場合には生産性にも負の影響を与える。現行のアメリカの制度と同じく、医療保険のプレミアムは所得税がかからない。働いていなかったり、医療保険がオファーされなかったり、オファーされても買わなかった場合には、自分で民間の保険を買うか、無保険でいるか、所得が低い場合はMedicaidを利用するか、のどれかを選ぶ。翌年の医療費の一部分はどの保険を費用しているかに応じて異なる割合でカバーされる。同時に、労働者は、いくら貯蓄し、いくら消費に回すかも決定する。ライフサイクルモデルなので、労働者は退職後に備えて、年金を上回る分の貯蓄を行う。アメリカの個人所得税と同じように、個人の収入には累進的な所得税がかかる。

モデルは無保険者の比率などがデータと合うようにカリブレートされる。例えば、学歴が低いグループのうち、33%は企業が提供する保険に加入しており、6%は民間の保険を利用、40%は無保険、22%はMedicaidを利用している。学歴が高いグループでは、69%が企業が提供する医療保険に加入しており、8%が民間の保険、17%が無保険、7%がMedicaidを利用している。学歴(収入といってもよいだろう)の違いによって、どのような保険を利用しているかという状況がずいぶん違うことがわかるであろう。労働者全体では、企業が提供する医療保険に加入している比率が63%、民間の保険の利用者が8%、Medicaid利用者が9%、無保険者が20%となっている。この20%という無保険者の比率の高さがアメリカの医療保険制度改革ののモチベーションとなっている。

このようなモデルに、ACAを導入してみたどうなるか?このペーパーではACAのうち以下の要素を導入した。
  1. 医療保険に加入しないと、年間695ドルか収入の2.5%の高いほうの罰金を払わなければならない。
  2. 企業から医療保険を提供されない場合、community ratingの民間保険を購入することができる。
  3. 貧困線の133%を下回る収入しか得ていない人はMedicaidを利用することができる。収入が貧困線の133%から400%の間の人は医療保険を購入する際に収入に応じて補助金を受け取ることができる。
  4. 追加的な財源は個人所得税の累進性を高めることでファイナンスされる(つまり高所得者が負担する)。
 ACA導入前と導入後の経済全体の様子を比較したのが以下の表である。
ACA導入後(右の列)は無保険者(Uninsured)の比率が、20%から9%まで低下した。では主にどの医療保険に流れたかというと、民間の医療保険を利用している人の割合が7%から19%まで増加している。企業が提供する医療保険(ESHI)の利用者の比率は64.4%から62.5%に微減しているが、これは、働いている人の比率が90%から89%に下落していることと連動している。なぜ就労者の比率が下落しているかというと、Medicaidを利用するために働くのをやめていた低学歴の人々が働き始める一方、企業の提供する医療保険を利用するために(あるいみいやいや)働いていた高学歴の人々が働くのをやめ、後者の効果が前者効果を上回っているからだ。保険が充実すれば医療支出にそなえて貯蓄していた分がいらなくなるので、経済全体の貯蓄量(Capital)は減少する。よって、資本も労働も減少することからGDPは低下することになる。
こんどはACAの導入によって誰が得をするかを考えてみよう。CEVというのは、毎年の消費の何%の増加に相当するかいう形で幸福度(効用)の上昇を図ったものである。全労働者の平均としては、0.64%の毎年の消費の増加に相当する幸福度の上昇がACAの導入によって引き起こされるが、特に恩恵をこうむるのは低学歴者、および若者である。低学歴者が得をするのは彼らは拡充されたMedicaidや医療保険への補助金からメリットを受ける可能性が高いからである。ACA導入時には退職している世代が損をこうむるのは、彼らはすでに保険は公的保険(Medicare)でカバーされているので、ACAによって恩恵はこうむらず、増税によって損をするからである。
では、いろいろあるACAのどの要素が社会全体の幸福度の増加を生み出す主要な要因となっているのだろうか?子の疑問に答えるために、ACAの一部分だけ実施してみた仮想実験の結果が上の表にまとめられている。Only Distribution (4行目)というのはMedicaidの拡充(5行目)と医療保険への補助金(6行目)だけを実施したものである。CEVの数字を見ると、ACAの構成の引き上げ効果の大部分はこの二つによって生み出されていることがわかるであろう。CR(民間の保険におけるcommunity ratingの実施)や無保険者へのペナルティは大した影響はないというのがこの仮想実験の結果から読み取れる。結局は、ACAは高学歴・高収入者から例学歴・低所得への再配分政策を強化している(redistribution)という面が医療保険市場の規制(regulation)という面より重要だということだ。

このペーパーはとても包括的な分析を丁寧に行っていると思うが、ACAの分析という意味では、まだ欠けているところもある。例えば:
  1. 企業のサイズという概念がないので従業員50人の企業にのみ適用される、医療保険を提供しないことによる罰金の分析はできない。
  2. 企業が医療保険を提供するか否かは、外生的に与えられた確率に従っているので、ACAが実施された際に、医療保険を提供する企業の数が変わるかもしれないといったチャンネルは考慮できない。
  3. 失業のリスクが考慮されていない。 
 このような点を考慮した分析を行ったのが最近のNBER Working paper、"Equilibrium Labor Market Search and Health Insurance Reform," by Aizawa and Fangである。彼らのペーパーはとても複雑なので、細かい点までは立ち入れないものの、上で取り上げたペーパーに比較して次のような点で優れている。
  1.  企業の生産性が異なることで、異なる大きさの企業が存在する。よって、従業員が50人を上回る企業の医療保険提供義務の分析が可能である。
  2. 企業が医療保険を提供するか否かの決定も内生化されている。
  3. サーチモデルを取り入れることで失業者や、失業して保険も失うというリスクも考慮される。
  4. 労働者についてのマイクロデータと企業についてのマイクロデータの両方を使って転職も存在する複雑なモデルのパラメータが推定されている。
最初にあげたペーパーより細かくデータとあわせているという点はあるものの、マクロ的な分析という面では物足りない面も多々ある。以下に列記してみよう。
  1. おそらくデータとうまくあわせるためであろうが、高卒かそれ以下で、26-46歳の労働者しか考慮していない。ACAの影響を元も受けやすい人たちであるともいえるが、これはかなり少数の人に絞った分析だ。
  2. (所得が高い)高学歴の人がモデルの中にいないので上のペーパーで重要であった所得再配分というチャンネルは議論しづらい。
  3. そもそも、財政均衡が組み込まれていない(ように見える)ので、ACAの財源問題が考慮されない。言い換えれば部分均衡的な分析だ。
  4. 医療費のリスクを分析するため労働者はリスクを嫌う(risk-averse)ように仮定されているが、その一方労働者は貯蓄ができないと仮定されているので(もちろんできるなら貯蓄したい労働者が多いと思う)保険のメリットが誇張される。このようなモデルは、公共経済学ではショートカットとしてしばしば使われるが、マクロでは一般的ではない。保険のメリットが誇張されるので、幸福度(効用)の数字が普通より更に当てにならなくなる(とはいえ、高卒の労働者だけ見るのであれば、貯蓄している人は少ないという議論は可能かもしれない)。
  5. 労働者側の方は一部分の人しか見ていないけれども、多分企業のデータの方もそれにあわせて調整している(分析の対象となる人の雇用だけを見る)ようには見えない。調整するとなるとデータがちょっと不自然になるという面もあるのかもしれない。
  6. Medicaidが考慮されていない。最初に紹介したペーパーによると、低学歴グループのうち22%はMedicaidを利用しているにも関わらずだ。
このような点を差し引いても、いろいろ面白いことが起こっているモデルである。筆者らが強調するチャンネルは次のものだ。
  1. 転職(job to job transition)が考慮されているので、生産性が高く、高い賃金をオファーできる企業は生産性(および賃金)が比較的低い企業から労働者を引き抜くことができる。同時に、高い賃金をオファーしていると労働者を他社から引き抜かれる可能性が低い。更に、企業に働いていて医療保険でカバーされている労働者は比較的健康を維持しやすい(と仮定されている)。これらの結果、生産性の高い企業には長く企業で働いており比較的健康な労働者が集まることになる。この結果はデータと整合的だ。
このようなモデルの中でACAを導入した結果のうち主なものは以下の通りだ。
  1. 無保険者の比率は20%から7%まで下落した。ACAの中でこの下落に一番重要な役割を果たしているのは、最初に取り上げたペーパーと同じく、医療保険購入のための補助金である。
  2. 従業員数が50人以上の企業は少なくなった。これは従業員50人以上の企業に適用される医療保険提供義務の影響だろう。このような医療保険提供義務がなければより大きくなっているはずの企業のサイズが小さくなるので、労働者の平均的な生産性および賃金はマイナスの影響を受ける。筆者らの反実仮想実験によると、従業員50人以上の企業の医療保険提供義務はない方がACAによる平均的な効用は高まることがわかった。
  3. その一方、保険に加入することで健康状態が改善する労働者が増えるので、平均的な健康状態は改善する。
ACAはまだまだここで取り上げられていない要素も含まれており、より一層研究が進んでいくと思う。もう一つ付け加えると、最初に取り上げたペーパーは現代のマクロ経済学の最先端のツールをきれいに使って政策の分析を行っており、マクロ経済を専攻する学生が目標とするにはちょうど良いペーパーだと思う。

このエントリは非常に長いので、多々間違い等が見つかると思う。見つかり次第修正していく。

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