マクロ経済学では、モデルを作るときに、均衡が1つしかないようにすることが重要である。モデルの挙動をデータと近づけるためには、モデルの均衡が常に1つで、その均衡を、パラメータを調整(推定してもカリブレーションしてもよい)することによって、データに近づけることが重要だからだ。データとモデルの挙動を近づけることで、モデルが現実の経済の分析に適していることが確保される。
その一方、このポストなどで触れてきたが、ゼロ金利制約(金融政策で誘導できる名目金利はゼロより(大きくは)下がれないという制約)のもとでは、金融政策の分析に使われる現代の代表的なモデルであるニューケインジアンDSGEモデルには少なくとも2つの均衡があることが知られている。この二つの均衡を「通常」の均衡および「流動性のわな」の均衡と呼ぼう。
なぜ、「流動性のわな」か。流動性のわな(Liquidity Trap)という言葉は、日本の状況を表現する際によく使われる。Wikipediaによると、ケインズがこのような可能性に言及している。どういう状況か、わかりやすく書いてみよう。金利が下がってしまうと、人々は金利を生む金融資産(債券など)よりも(金利を生まないが取引に使えるなど、そのほかの利点がある)貨幣が好むようになってしまう。このような状況下では、中央銀行がいくら貨幣の供給量(マネーサプライ)を増やそうとも、人々は追加的に供給された貨幣を喜んで保有するので、金利に影響を与えないのである(金利が動くまでもなく通貨の供給の多い均衡に経済が到達する)。つまり、中央銀行は金利に影響を与えられないので、金融政策は使い物にならなくなる。金利が低いときに起きる可能性が高いのは、金利が高ければ、誰かしら、金利を生まない貨幣より金利を生む金融資産を好む人がいるはずだからである。
このような定義を、もう少し別の(現代的な)言い方をすると、こうなる。短期の名目金利がゼロに下がると、短期の安全な金融資産(国債と考えればよい)と貨幣(短期で、名目金利ゼロで、インフレ率が安定している限り安全な金融資産と考えられる)はかなり近い代替物(どちらも、国が価値を保障する安全な、かつ金利ゼロの資産)になるので、中央銀行が国債と貨幣を交換することでマネーサプライを増やしても、民間の経済主体にとっては何の影響もない、ということになる。中央銀行が金利を下げて、経済活動を刺激することで景気を刺激したくても、短期の名目金利はゼロ以下に(大きくは)下げられないので、(標準的な)金融政策は無力となってしまうのである。「流動性のわな」の均衡はこのような状況をあらわしていると考えられる。
では、実際の経済はどちらの均衡にあるのだろうか?簡単に考えれば、「流動性のわな」の均衡はゼロ金利制約に引っかかっている(中央銀行がターゲットにする短期名目金利がゼロ)か否かで簡単にわかるはずと考えられるが、経済にさまざまな短期的なショックがある場合、物事はちょっと複雑である。経済は「通常」の均衡にあったとしても、経済に何らかのショックが加わった結果、「流動性のわな」の均衡にはなくても、一時的にゼロ金利制約に引っかかっている可能性も理論的にはありうるからだ。逆のケースもありうる。経済が「流動性のわな」の均衡にあったとしても、一時的に何らかのショックで、ゼロ金利制約から離れているということもありうるかもしれない。
サンフランシスコ連銀の総裁で、時期ニューヨーク連銀の総裁になることが決まっているJohn Williamsはサンフランシスコ連銀のThomas Mertensと書いた最新の論文("What to Expect from the Lower Bound on Interest Rates: Evidence from Derivatives Prices"、ここからダウンロードできる)において、この質問に答えることに挑戦した。
細かいところには立ち入らないが、大まかなロジックはこういうものである。Williamsは2000年以降、自然利子率(経済の平均的な状態で達成される実質金利、r*(アールスター)と呼ばれる)が低下しているという研究を続けている。では、r*がどんどん低下していっている場合、経済が「通常」の均衡にあると、名目金利やインフレ率はどのように変化するだろうか?経済が「通常」の均衡にあって、中央銀行がターゲットのインフレ率(年率2%)を達成できている場合、r*が下がって行っても、名目金利はr*+2%で一緒に下がってゆく。インフレ率は2%で動かないはずである。但し、経済にショックがある場合、時々、r*+2%がゼロ金利制約に引っかかって、下がりきれないことがあるかもしれない。その場合、名目金利はr*+2%よりちょっと上にとどまることになる。更に、金利を下げきれないので、経済が停滞し、インフレ率も2%より低下する可能性がある。r*がどんどん下がっていくと、そのような状況に直面する確率が高まっていくことになるので、将来の名目金利の予測値は、r*が下がっていくと一緒に下がっていきつつも、その差は小さくなることが予想され、予想インフレ率は2%から下がっていくことが予想される。
では経済が「流動性のわな」の均衡にあって、r*が下がっていった場合、名目金利やインフレ率はどのように変化していくことが予想されるだろうか?「流動性のわな」に直面している場合、名目金利は基本的にゼロで動かない。では、均衡において常に成り立っている、以下のフィッシャー均衡式(Fisher Equation)からインフレ率を考えてみよう。
名目金利 = 実質金利 + 期待インフレ率
実質金利r*が下がっていって、名目金利がゼロのままだと、上の式から、期待インフレ率は上がっていくことになる。
つまり、r*が下がっていったときに、名目金利やインフレ率がどのように変化していったかを見ることで、経済が「通常」の均衡にあったのか、「流動性のわな」の均衡になったのかをテストすることができるのである。Williamsは2000年以降のデータは、経済が「通常」の均衡にあったという解釈と整合的であることを発見した。
彼のモデルでは、経済が2つの均衡を行ったり来たりするようなケースを排除している等、改善の余地はあると思うんだけれども、金融政策にとって重要な結果をきれいに導いたペーパーだと思う。
彼の発表を聞いていて考えたのは、FRBと日本銀行の違いである。FRBでは金融政策を決める会合の主要メンバーがこのような論文を書いて経済学会とコミュニケーションを図ることができ、Williams、Evans、Bullard、Mester(それに近々Claridaもなのかな)といった一線級の経済学者がこのようなレベルの考察を元に金融政策の方向性について議論し、金融政策が決められる。一方、日本銀行の金融政策決定会合では、このような論文が書けるメンバーがそもそもいないし、このレベルの議論なんて多分なされない。マクロ経済学者としてはとても残念な状況である。
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