Random Thoughts

またまた空いてしまった。夏は学会があったり休暇を取ったりで、ゆっくりした時間の流れなのでしょうがないが、そろそろ学期も始まるし、通常営業に戻れればと思う。

  1. 日本のマイクロデータが見つけにくい(特に日本語を使わない場合)、使いにくい(安易に使わせてくれない)、あまり整備されていない(使いにくい形式で公開されている)という話はよく聞く。個人的には、経済学者にあげている研究費を10%くらい削って、そのお金で様々なマイクロデータを使いやすい形に整備して一ヶ所で公開するような仕組みでも作ればと思うんだけれど。あるいは、誰かが、マイクロデータ整備という名目で巨大な研究費が取れないだろうか?もしかしたら、マイクロデータを使っているのは比較的若手(あるいはまだ研究の第一線で活躍している中堅)で、巨額の研究費を取ることができなかったり、そういうインフラ整備に時間をかける場合ではないのかもしれない。
  2. では、次善の策としては、例えば、Japanese Economic Reviewで、マイクロデータを使った研究の特集号、というものを作り、そこにペーパーを乗せた人たちは、使用したマイクロデータを、使いやすい形で自分のホームページ(あるいは特集号用に作ったホームページ)に公開することを義務付けるというのはどうだろうか?
  3. himaginaryさんという方は、毎日更新していてすごいなぁ、と思うのだけれども、翻訳するものの選択が、現代のマクロについていっていない人の愚痴のようなものが多い気がする。英語のブログとかの翻訳をやっているサイトは他にもいくつかある気がするが、そういう傾向のものが多い。そういう人の方が、わかりやすく書いてあったり(だから誰でも翻訳できる)、経済学者はえらそうでいけ好かないと思っている人(たくさんいるはずだ)のニーズにこたえているんだろうが、日本に英語で行われている議論を紹介するという趣旨のこういうサイトが、日本の経済学の発展を阻んでいる面があるとしたら残念だ。

Pragmatic Approach to Behavioral Economics

今年のAEA(アメリカ経済学会の年次総会)ではRaj ChettyがRichard Ely Lecture(アメリカ経済学会主催のとても権威のある講演)を行った。その内容は前回もその中のペーパーを紹介したAER P&Pに収録されている。そのメッセージは、「行動経済学を、新古典派経済学と対立するもののように捉えるのではなく、より実践的なものとして捉えましょう」というものだった。Chettyは、行動経済学をより実践的なものとして捉える例として、彼が関与した3つのプロジェクトについて話している。

1つ目は、行動経済学に基づいて、ある目的を達成するための政策をより効果的なものにできるという例である。具体例として挙げられているのは、退職後の生活を支えるための貯蓄が不足している人が多いと考えられる状況下、退職後のための貯蓄を増やさせるためにはどうしたらよいかという問題である。新古典派的な考え方からすると、貯蓄を増やしたければ、貯蓄することの利益を増やせばよい。具体的には退職後のための貯蓄に対して補助金を付けるというのが一般的な政策である。401(k)というのは、そのための目的で実施されている。401(k)というのは、退職後にしか基本的には使えない口座にお金を積み立てる人には、その積立額には所得税をかけないというものである。もちろん引き出すときには所得税が掛かるのだけれども、そのときの限界税率は低い(そのときの年収は働いていたときの年収より低いのが普通なので)のが普通なので、401(k)口座に積み立てをすることで税支払いを少なくすることができる。但し、Chettyらがデンマークにおいて401(k)のような退職用の貯蓄口座について制度変更が行われた時に人々はどのような反応を示したかを調べたペーパーによると、新古典派経済学が想定するような反応を示した人は全体の19%だけであり、残り81%の人は貯蓄行動をぜんぜん変えなかった。

では、行動経済学的にはどのような政策を実施すると退職用の貯蓄口座に積み立てる金額を増やすことができるか?有名な例は「デフォルトの変更」(Madrian and Shea)である。 例えばある会社の社員は自動的に給料の5%が退職用貯蓄口座に振り込まれるというデフォルトを設定したとする。もし、ある人がこの会社に転職してこのデフォルトが実施される前に(新古典派的な意味で)最適な貯蓄計画を立てているとしたら、この人は他の口座において5%に当たる金額だけ貯蓄を減らして、全体の貯蓄額は変化しないようにするはずである。しかし、Chettyも関与した最近のペーパーによると、こういうデフォルトのある会社に転職した人の多くは、特に他の口座に貯蓄する金額を減らしたりはしなかった。つまり、デフォルトで5%の貯蓄を設定するだけで貯蓄率が5%上げられるのである。このような政策は新古典派的なフレームワークからは出てこない。しかし、行動経済的な考え方から、より効果的にある目標を達成できるといういい例である。

2つ目の例は、行動経済学的な考え方を取り入れることで、ある政策を実施したときの政策の効果をより正確に予測できるというものだ。その例として、EITC(Earned Income Tax Credit、日本語では勤労所得税額控除というらしい)についての研究について語られている。EITCというのは簡単に言うと、低所得者の労働を促すために、低所得者には給料の金額が上がれば上がるほど、補助金を多くあげるという制度である。ただ、低所得者のみを対象としているので、所得がある金額を超えると、補助金はなくなり、更に所得が増えると、補助金は少なくなってゆく(もちょろんそれでも補助金込みの収入はだんだん増えてゆくように設定してあるが)。

新古典派経済学的な考え方からすると、補助金がなくなる所得レベルに達した時点で、 それ以上働くのをやめることが予想できる。実際に、補助金がなくなる所得レベルにたくさんの人があつまっている(bunchingという)のがデータでは観察できる。

では、新古典派経済学であまり重視されない考え方というのは、EITCについて知っている人と知らない人がいるだろうということである(個人的にはこれを行動経済学と呼んでいいのか疑問だ…)。EITCを利用している人が周りに多ければ、自然とEITCについて学ぶので、よりEITCの制度に応じた収入を目指すだろう。つまり、bunchingも顕著になることが予想される。実際に、Chettyの最近の研究によると、EITCを利用している人の多い地域のほうが、顕著なbunchingが見られた。更に面白いのは、EITC利用者が多い地域に引っ越した人はよりEITCを使うようになるが、EITC利用者が少ない地域に引っ越した場合はEITC利用率は下がらないということである。解釈としては、一旦EITCについて学んだら、EITCを使う人が周りに少なかろうが自分は使いかたをもう知っているので、周囲の影響を受けないということである。つまり、周囲にEITCを使っている人が多いか少ないかが、どのくらいEITCを使えるかに大きく影響するということをこの研究は示している。

3つ目の例としては、行動経済学を使うと、厚生の分析についても役に立つということである。 一例として、多くの低所得家庭が、なぜ、よい学校のある近くの地域に引っ越さないかという問題を使っている。今住んでいる地域の近くで、学校の質は良いから子供の将来の所得は平均的に高くなるものの、住宅に掛かる費用は今の(質の悪い学校の地域の)家と変わらない地域があるにも関わらず、引っ越さない低所得家庭が多いらしい。新古典派的に説明は、引越しに(目に見えないかもしれない)コストが掛かることである。一方、行動経済学的にはいくつかの説明が考えられる。
  1. Present-Bias。Laibsonの双曲割引モデルのように、将来の利益を大きく割り引いて判断しがちであれば、(高い所得という)子供の将来の利益をうまく考えられていないのかもしれない。
  2. 情報の不足。低所得家庭の親は、近くに同じくらい生活費で、教育の質がいい地域があるということを知らないのかもしれない。
  3. 予測バイアス。子供の将来の所得をバイアス無く予測できないのかもしれない。特に、悲観的過ぎる予測をしてしまうのかもしれない。
  4. 貧困に苦しんでいる家庭は、目の前の利益に目がくらんでしまうのかもしれない。
では、このようないろいろな仮説があって、それらがどれも親が引っ越さないという同じ予測を生み出す(observationally equivalent)時には、どうすればよいであろうか?経済学者のやり方というのは、それぞれの仮説に基づいたモデルを作って、どのモデルが一番データとうまく合致するかを調べて決着を付けるというものである。とはいえ、どのようにデータを使えばよいのか。Chettyは3つのアプローチを挙げている。
  1. 主観的な幸福度を使う。但し、主観的な幸福度をutilityを測る変数として使うことには様々な問題がある。
  2. Sufficient Statisticsを使う。現在の文脈では、行動経済学的な要素が入り込まない状況を見つけ出して、その状況を使って、モデルの重要な一部分だけを推定するというやり方である。
  3. Structural Model全体を推定する。モデル全体の推定は難しいし、モデルのセットアップの仕方によって結果が変わってくるという結果の頑健性という問題もある。
Chettyは最終的にはどのアプローチがいいかはわからないと結論付けているものの、どのモデルが正しいかについて決着を出さなくても、ある目的を達成する政策を実施することはできると述べている。いわゆるHansen and Sargentがマクロの文脈で使ったRobust Control Approachである。これは、正しいモデルがどれかわからない状況下でも、どのモデルでも最適となるような政策を実施しましょうという考え方で、ここでも応用できるとChettyは述べている。彼が挙げた例を使うと、近くにいい学校のある地域がある別の地域に住んでいる低所得者家庭の親に、情報提供するなどして、「Nudge」するというのは、Robust Policyと考えられる。もし、引っ越さない理由が引越しコストなのであれば、Nudgeされても引っ越さないだけだし、そういう機会があることを知らなかった親に対しては、低コストで引越しを促すことができるからである。逆に、新古典派的な政策(引越しに対する補助金)を行うと、本来は引っ越したくない人にも引越しのインセンティブを与えてしまうという点で、Robust Policyではない可能性がある。

かなり詳細をはしょった訳をしてしまった。行動経済学vs新古典派のような争いをせずに、協力して政策を寄りよいものにしましょうというメッセージはいいものだとおもう(さすがナイスガイのChettyだ)が、難しいかなと思う。特に3番目の例においては、厚生分析が絡んでくると「実践的なアプローチ」というものにこだわり続けるのは難しいかなという気がする。最後になるが、何で「行動経済学」の人は何でもかんでも行動経済学にしたがるのか、謎である。

Why Don't Present-Biased Agents Make Commitments?

今年のAERのPP(Papers and Proceedings)にTwenty Years of Present Biasというセッションがあった。LaibsonのペーパーとO'Donoghue and Rabinのペーパーが並ぶという豪華なセッションだ。20年というのが何を意味するのかはっきりとはわからないが、おそらくはLaibsonが有名なQuasi-Hyperbolic Discountingに関する一連のペーパーを書いたのが1990年代半ばなので、それを祝ってという趣旨であろうか...

Laibsonがそこで発表したペーパー("Why Don't Present-Biased Agents Make Commitments?")を簡単に紹介する。Present-Biasというのは、意思決定をするときに、今の利益を将来の利益に比べて過大評価してしまうということである。本来は今勉強しておけば将来役に立つことはわかっているのに勉強することによる今の苦痛を勉強から得られる将来の利益に比べて過大評価することで、結局勉強しないような例がわかりやすいか。あるいは、これも良く使われる例だが、今ポテトチップスを食べ過ぎると太ってしまい、健康を害することはわかっているのに、今ポテトチップスを食べることによる喜びを、今節制することで将来得られる利益に比べて過大評価してしまうので、結局食べ過ぎてしまい、太ってしまうということとらえても良い。

このような話は1990年代からモデル化していることで、2010年代の研究対象ではない。今関心がもたれているのは、こういう状況で、もし個人が将来の利益を過小評価しているなというのを意識しているのであれば(こういう人をSophisticated agent(洗練された個人)と呼ぶ)、自分が長期的に見て最適な行動を取れるように、自分に制約を課す(コミットメントと呼ぶ)のが最適な行動となるのに、なぜ人はそういうことをあまりしないのかということである。Laibsonによると、実験においても、現実世界でコミットメントが容易な状況でも、コミットメントはあまり見られない。

それはなぜだろう。もしかしたら、Present-Biasという仮定が間違っているのかもしれないが、それ以外の別の解釈の仕方はある。 このペーパーでは、コミットメントがあまり使われていないことを正当化する理論をいくつか提示している。

次のような設定を考えてみよう。詳細は実際のモデルと異なるがまぁ、そんなに悪い単純化ではないと思う。夏休みの宿題は終わらせなければならない。遅くすれば遅くするほど大変になる(先送りのコストは毎日「L」かかる)が、宿題をやるとすると苦痛である(宿題をするときの苦しみの度合いは「C」)。夏休みが始まる前に、親に話して(親にこれを頼むコストはとても小さいとする)、宿題をすぐにしなければ夏の間は大好物の冷やし中華が食べられないことにすることができるとする(これがコミットメントを実現するための仕掛け)。このとき、どういう状況で、コミットメント(冷やし中華なしの夏休み)が使われるか、を示しているのが下のグラフである。


Y軸は宿題を先送りすつコスト「L」、X軸は宿題をやる苦痛「C」をあらわしている。宿題を先送りするコストが大きい(Y軸に示された「L」が大きい)ときには、先送りせずに、すぐにやる(「Immediate Action」と示された領域)ことが最適となる。逆に、宿題を実施する苦痛が大きい(X軸に示された「C」が大きい)ときには、先送り(「Procrastination」)することが最適となる。そのどちらのケースでもない中間のケースでは「コミットメント」を使う(親が冷やし中華を作ってくれない事態を避けるためにすぐに宿題をやる)ことが最適な行動となる。

では、コミットメントが使われにくいケースとして、自分にPresent-Biasがあることをあまり強く認識していない(ナイーブな個人という)場合はどうなるであろうか?その場合、コミットメントが必要な場合でも、その必要性自体が認識できないので、コミットメントを使う領域が小さくなる。下の図がそのような状況を表している。
更に、親に、コミットメントを頼む(夏休み中すぐに宿題をやらなければに冷やし中華を作らないように頼む)際にコストがかかる場合(夏休みに入る前に親の肩を1週間毎日もまなければならない)はどうなるか?コミットメントを実現するためのコストが大きければコミットメントはもちろん使われなくなる。グラフとしては、下のような形になる。
コミットメントが使われるケースがとても小さくなることがわかるであろう。Laibsonは、比較的小さいコストでも、コミットメントが使われる領域がかなり小さくなることを示した。これはなぜか?コミットメントを実現するためのコストは前倒しで払う(夏休みの前に行う)のに比べて、宿題を先送りするコストや宿題をやる苦痛は将来の話なので、(将来のコストや苦痛を割引する限り)、コミットメントのコストに比べて(現時点での評価が)小さいからである。言い換えれば、コミットメントのコストが低ければコミットメントは使われる可能性はあるのだけれども、小さいコストがあると、Present-Biasがあっても、コミットメントが使われない可能性は十分にある。

多分、次のステップは、Present-Biasの観点から実際にコミットメントが有効だと思われる状況で、コストがどの位大きいのか、そのコストはここで挙げたモデルと整合的(コミットメントを使わせないくらいコストが大きい)か、と検証することだと思う。

Macro Perspective of the Optimal Tax for Top 1%

所得の不平等が拡大するにつれ、高額所得者の所得にどの位課税すべきかという問題がアカデミアの内外で議論されてるようになってきた。このポストでは、Diamond-Saezが静的なモデルを使って導出した結果を紹介した。彼らのモデルによると、アメリカにとって最適な、高額所得者に適用する最高税率は現行の43%よりずっと高い73%ということだった。

但し、彼らがその結果を導くにあたって使用されたモデルはかなりシンプルなものであった。もちろん、シンプルだから結果がシャープでわかりやすいというメリットは大きい。彼らのような、最適な政策などを観察できるいくつかの統計量の関数として表現することで、それらの統計量と最適な政策とのリンクを明示化するアプローチは「Sufficient Statistics Approach」とよばれて、最近流行りまくっている。

但し、その一方、彼らの結果を導出するのに使われた仮定を緩めるとどうなるか、というのも面白い問題として残っている。この問題に答えたいくつかのペーパーが出てきているので、紹介しておこう。どちらのペーパーも、マクロ経済学で一般的に使われる不完備市場OLGモデルをベースにしているという意味で、カリブレートされた動的なモデルを使う、マクロ公共経済学の観点からDiamond-Saezの質問を再考しているととらえることができるだろう。

まず、Diamond-Saezのモデルの大きな仮定は、静的なモデルということである。つまり、税率が上げられた場合、労働者にできるのは労働時間を短くすることだけであり、消費するか貯蓄するかというチャンネルは考慮されていない。それに、貯蓄が存在しないということは、高額所得者の収入の大きな部分を占める金利・配当・キャピタルゲインに対する課税が無視されているということである。これらを考慮するために動的なモデルにするとDiamond-Saezの結果はどう変わってくるか、について研究したのがKindermann and Kruegerによるペーパー"High Marginal Tax Rates on the Top 1%?"である。

彼らは労働者にライフサイクルが存在するOLG(Overlapping Generations Model)を使って、Diamond-Saezと同じ質問に答えてみた。彼らのモデルは不完備市場モデル(いわゆるBewley-Aitagari-Huggettモデル)で、個人の生産性にショックがあり、そのショックが大きいので、アメリカ並みに大きい所得の不平等、及び(モデルの中の個々人が行う最適な貯蓄行動の結果)資産保有の不平等が再現されている。労働者は、生産性が高いときには、生産性が低くなったときに消費を減らさずにすむように(precautionary saving motive)、あるいは退職後の消費を補完するため(life-cycle saving motive)に、貯蓄を行う。

著者らは、彼らのモデルを使って、トップ1%の高額所得者に適用する最適な税率を計算したところ、最適な税率は73%よりさらに高い89%であることがわかった。社会的効用を最大化せず、トップ1%から得られる税収を最大化すると、税率はさらに高い95%であることがわかった。なぜこんなに高いのか?彼らのモデルでは、収入でトップ1%に入るような人はとんでもなく高い生産性を運よく(ショックによって)手に入れた人である。彼らはしばらくすると生産性が落ちてしまうので、生産性が高いうちにはできるだけ働いて、生産性が低くなってからも高い消費が確保できるように働きまくるのである。このようなインセンティブが存在する場合、トップ1%に適用される税率をかなり引き上げても、彼らの労働意欲は減退しない(つまり、労働供給の課税に対する弾力性が低い)ので、効率の税率をかけてもそれによって労働時間が減って税収が下がるような負の効果はあまり強くないのである。重要なのは、トップ1%に入るような生産性の劇的な向上が運によってもたらされること、さらに、その幸運は長続きしないということである。

ただ、トップ1%に入るような劇的な生産性の向上を得ることは、何らかのスキル(人的資本)の蓄積があって初めて可能となるのではないかと考えることもできるであろう。最近の研究では、トップ1%にはいるような人は、大学(院)を出て、いろいろなスキルを身につけた人が多いという研究結果もある。では、上で挙げたモデルに、人的資本の蓄積を組み込んだら結果はどう変わるであろうか?もし、トップ1%に入るような高い生産性を獲得するためにはスキル(人的資本)を蓄積しなければならないのであれば、静的なモデルあるいは動的だけれどもスキルの自発的な蓄積というチャンネルのないモデルよりも、トップ1%に対する税率を上げたときの経済全体のスキルの蓄積に対する負の効果が大きいことが考えられる。この場合、そのような効果を勘案すると、トップ1%に適用される最適な税率はDiamond-SaezあるいはKindermann-Kruegerの結果よりずっと低いこともありうるだろう。

Badel and Huggettのペーパー("Taxing Top Earners: A Human Capital Perspective")はこの質問に答えたペーパーである。セットアップはKindermann and Kruegerと同じく、不完備市場のOLGモデルであるが、今回は、人的資本の蓄積が自発的に行われると仮定されている。もちろん人的資本の蓄積が速いか遅いかはショックによるのであるが、税率を上げると、人的資本の蓄積に負のインセンティブを与えるというチャンネルはきちんと取り入れられている。著者らは、このモデルを使ってトップ1%からの税収を最大化する税率を計算し、52%という結果を得た。更に重要なことに、人的資本の蓄積というチャンネルをはずすと、最適な税率は66%と高めに出ることがわかった。つまり、人的資本の蓄積というチャンネルを考慮しないと、最適な税率は高く(ここでは14pp)計算されすぎるということである。更に、著者らのモデルから得られるデータに、Diamond-Saezのモデルの結果を当てはめてみると、最適な税率は本来の52%よりかなり高くなることもわかった。

ここで紹介した結果は、単純なモデルから得られる結果は、単純化のための仮定に大きく左右される可能性があることを示している。高額所得者にどの位の税率を課すべきかという重要な問題に対して、経済学者が合意できるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。

Random Thoughts

  • 日本の理論の偉い先生が、最近の学生が数学のような厳密な証明をしなくなったようなことを嘆いていた。理論をやっている人の心配はわかるけれども、こういう考えがはびこっていると、数学ができれば経済学ができるとか、モデルの数式がわかれば経済学ができるような、僕からすれば方向を誤っている考え方につながるんだと思う。厳密で難しいけれども、重箱の隅を突っついてるようなペーパーも重要だけれども、大雑把で穴はあるけれども、面白いデータを見せてたり、おもしろいチャンネルを提示しているペーパーも重要だと思う。
  • また、マクロの偉い先生が、日本で行われている政策議論を避けてデータと向き合ったというようなことを書いていた。ちゃんと客観的にデータも見てやってるのかもかわからない政策論議に関わりたくない気持ちはわかるのだけれども、トップの先生にはもっとわけのわからないことをいっている人達と戦って欲しいと思う。
  • どちらの例も、日本において、いわゆる経済学者が大学に篭ってしまい、きちんとした政策論争があまり行われないように見えることと関連していると思う。僕のような、ちゃんとした論文もあまり書けずに苦しんでいる駆け出しはまだどうしようもないけれども、ちゃんとした業績もあって尊敬もされている先生方には先陣を切って戦場に出て欲しいものだ。