マクロ経済指標ばかり見ていると忘れがちなことであるが、GDPの変動は個々人の所得の変動に比べるととても小さい。GDPを国内に住む人の平均所得として捕らえると、GDPの変動は平均的な所得の変動と言い換えることができるが、その平均的な変動幅はせいぜい毎年2%くらい(これはトレンドを除去した実質GDPのstandard deviationである)である。歴史上まれに見る景気後退を経験した2009-2010年でも、GDP成長率は最低であった2009年の中ごろで前年同期比約4%の下落であった。その一方、個々人の所得の変動は平均で毎年15%近いという推定値がある。歴史上まれに見る景気後退期でも平均所得の下落幅は、通常の個々人の所得変動の1/3程度でしかないのである。
このような問題意識を背景に、マクロ経済学では、1990年頃以降、個々人が抱えるリスク、特に個々人の所得に関するリスクに関する研究が理論、実証の両面で進んできた。マクロで一般的に使われるRepresentative Agent Modelに対応して、Heterogeneous Agent Modelと呼ばれるモデルが理論面では発展してきた。
但し、これまでの研究では、「個々人の所得の変動」というものの中身について、十分な注意を払ってこなかった、というのが、今回取り上げる最新のAERに掲載されたペーパー(Low, Meghir, and Pistaferri, "Wage Risk and Employment Risk over the Life Cycle,"(AER2010))の主要なメッセージである。では、著者らは「個々人の所得の変動」の中身をどうやって分類したのか?彼らは、(1)労働者の生産性の変化に対応した所得の変化、と(2)失業及び就業に伴う所得の変化、の違いに注目した。失業したり、新しい職を見つけたり、転職したりした際に所得が変動するのは、容易に理解できるであろう。それ以外にも、同じ企業に勤め続けていても、所得は変動することが知られている(わかりやすいのは昇給だろう)。このペーパーの貢献は、まず第一に、アメリカの個人レベルのデータを使って、(1)と(2)の大きさを別々に推定したことにある。これまでの多くの論文では、個人レベルの所得リスクを議論する際に、両者を一緒にして推定していたのである。
では、(1)と(2)を分けて考えることにどのような意味があるのだろうか。あるものの中身について考えるのが重要なのは、それによって中身を意識しないで得られる結論と大きく異なる結論が得られるときで、何でもかんでもディテールにこだわればよいというものではない。例えば、マクロ経済学において、みかんとiPadの消費を区別せずに「民間消費」というもののみに注目するのは、細かく見ても主要な結論は大きくは変わらないと想定されているからである。筆者らは、(1)と(2)の違いに注目することで、失業保険や、障害保険、フードスタンプ(低所得者向けの食料費補助政策)といった異なる公的社会保険制度(セーフティネットと考えてもよい)がそれぞれ、(1)と(2)のリスクをどのくらい軽減する役割を持つか、そして、どの社会保険制度がより費用対効果が高いのか、といったことを、モデルを使って分析できるというのを、(1)と(2)の違いをきちっと取り扱うメリットとしてあげている。
では、実際のペーパーの中身をもう少し詳しく見ていこう。
彼らは、以下のような個人レベルの不確実性があるライフサイクルモデルを個人レベルのデータから推定した。
(a) 個々人の生産性はランダムウォークに従う。
(b) 労働者は失業リスクがある。具体的には、労働者は毎期毎期ある確率で職を失う。
(c) 失業者は毎期毎期ある確率である会社に職を見つける。
(d) 労働者も毎期毎期ある確率で別の会社からオファーを受ける。
(e) 会社の生産性はある確率分布に従っている。(c)と(d)のケースでは新しい会社の生産性はこの確率分布から決まる。
さらに、著者らは、高卒かそれ以下の労働者とそれ以上の学歴を持つ労働者について、別々に個人レベルのリスクを推定した。彼らの主要な発見の一つは、失業や就職、転職から生じる所得の変化を別々に取り扱わずにすべてあわせて「生産性に対するショック」として推定すると、「生産性に対するショック」の大きさは50%程度大きく推定されてしまうというものである。
次に、著者らは、アメリカの社会保険制度をまねたプログラムが存在するモデルを作り、そのモデルの中の個々人が上であげたような不確実性に著面している中で、どのように消費、貯蓄、労働に関する決定を行うかを分析し、モデルにおける個々人の行動パターンと実際にデータで見られる行動パターンを比較するすることで、モデルにおけるパラメータを決定した。別の言い方をすれば、モデルにおける個々人の行動がデータと近くなるようにモデルのパラメータを推定したともいえる。
では、改めて、どのような社会保険制度が存在するかを整理しておこう。
(i) 失業保険:労働者が失業した場合、働いていたときの所得の75%に当たる金額を一定期間(アメリカでは平時は半年(26週)なのだけれども、彼らの設定では1四半期となっている。なぜだろう)受け取れる。
(ii) 一般的な低所得者向け所得補償:各期の所得がある下限を下回っている場合のみ、所得に応じた(所得が少なければ少ないほど多い)補助金を受け取れる。フードスタンプのような低所得者だけが対象となるプログラムをすべて足し合わせたものである。
(iii) 障害保険:モデルでは生産性の低下を障害によるものとして捕らえ、生産性が低下した個人は傷害保険に応募できることとした。応募した場合、一定の確率で承認される。承認された場合は、生涯一定金額の補償を受け取ることができる。
(iv) 退職後の社会保障制度(いわゆるSocial Security):退職した個人は生産性に応じて一定の金額を生涯受け取ることができる。
著者らは、推定したモデルを使ってさまざまな仮想実験(counter-factual experiment)を行い、以下のような結論を導き出した。いわゆるStructuralなモデルを使うことの大きなメリットは、実際の経済では行えない仮想的な政策の効果の分析を、モデルを実験台としてできることである。実験用のマウスの代わりにマウスの生態を真似たプログラムを組んでコンピューター上のマウスで実験を行うようなものである。各個人の幸福度が明示的に取り扱われていることで、どのような政策が「望ましいか」という分析ができることも大きなメリットである(望ましい政策について意見が異なる個人が存在している場合、どのように「社会的に望ましい」政策を定義するかは難しい問題であるがここでは捨象する)。
1. 生産性に関するリスクが大きくなった場合、経済における総収入はあまり変わらないけれども、個々人のwelfare(幸福度と考えればよい)は大きく下がる。例えば、生産性へのショックの大きさが50%増えた場合、経済における総生産は4%下落するだけだが、毎期毎期の消費に換算して約16-19%welfareが減少する(つまり、生産性へのショックが50%増加することによる幸福度の下落幅と、消費が毎期毎期16-19%下がるときの幸福度の下落幅が同じくらいということである)。これはなぜか。総生産があまり下がらないのは、ショックの幅が大きくなれば生産性がものすごく低い人が生み出されると同時に生産性がものすごい高い人も生み出されるからである。(平均的な)幸福度が大きくがるのは、生産性の高い人の生産性がものすごく大きくなったときの幸福度の改善幅に比べ、生産性の低い人の生産性がものすごく低くなることによる苦しみの増大幅がとても大きいからである。
2. 失業リスク(労働者が失業する確率)が大きくなった場合、失業者が増えるので総生産は大きく減少するが、個々人の幸福度に与える影響は比較的小さい。これはなぜか?総生産が減少することは容易に理解できるであろう。幸福度に与える影響が比較的小さいのは、モデルでは個々人は将来失業した際に備えて貯蓄をするので失業時の所得の減少を貯蓄で補うことができること、失業の期間は平均的にはそれほど長くはないこと、失業した際は余暇の時間が増えるので、所得の減少幅ほどには幸福度に悪影響が出ないこと、が挙げられる。但し、失業期間は平均的には長くはないが、失業することで技術などを失い将来の賃金も下がってしまう可能性や、余暇の時間から得られる幸福度の評価方法などについては、より慎重な考察が必要だろう。
3. では、失業保険と低所得者向け所得補償ではどちらがより幸福度を高めるだろう。比較をうまく行うために、筆者らは、ある一定金額の政府予算を使って、失業保険あるいは低所得者向け所得補償を増額した場合の幸福度への影響を分析してみた。彼らの比較によると、(3-1) 学歴に関わらず、個々人は低所得者向け所得補償の方を好む、(3-2) どちらの政策にしても学歴が低いグループの方が幸福度が高まる、ことがわかった。なぜ低所得者向け所得補償の方が失業保険より好まれるのか。鍵となるのは、生産性に関するリスクは将来の生産性にまで影響を与える(ランダムウォークであることを思い出してほしい)一方、失業に関するリスクは一時的で、長期的な影響はあまりないからである。このような状況では、生産性に関するリスクをヘッジするのに役立つプログラムの方が好かれるのである。今比較しているプログラムで言えば、低所得者向け所得補償の方が生産性に関するリスクの軽減に役立つのである。学歴の低いグループの方が大きな恩恵を受けるのは、このグループの個々人の方がこれらのプログラムの恩恵を受ける可能性が高いので、これらのプログラムの拡張は、高学歴・高所得グループから低学歴・低所得グループへの(平均的な)所得移転の役割を果たすからである。
マクロ経済において重要なフィードバックメカニズムである一般均衡チャンネルが考察されていないという不満はあるものの、マクロ経済学においてこのような細かい社会保障プログラムの詳細な分析までできるようになったことは、とてもうれしいことだ。現在の日本の例で言えば、同じようなアプローチで子供手当ての効果を分析することは十分可能であろう。
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