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On the Model of "420,000 deaths"

 ホリデーシーズンで、かつ、ロックダウン真っ只中で、暇なので、自然とインターネットをみる時間が増えた。全然知らなかったんだけど、日本では、42万人が死ぬのという試算について、ずいぶん議論がなされていたようだ。ものすごく後れを取った話で、すでにいろいろな人が同じことを言っているような気もするけど、一応感想を書いてみる。

関連するツイートとかを見てみると、「予測」ではなくて「プロジェクション」だとかいった説明がなされている。とてもばからしい。こんなのだから、免疫学者は経済学者や非専門家につっこまれるのだろう。

説明を軽く読んでみると、コロナの終息までに日本で42万人の死者が出るというのは、再生産指数(コロナにかかった1人の人が何人にうつすかという数字)とコロナにかかって症状が悪化した人が死ぬ確率をもとに計算されているみたいだ。前者については、パンデミックの初期の推定値がずっと続くと仮定され、後者については、パンデミックの初期の中国の数字がずっと続くと仮定されているようだ。両方ともここで仮定された値より悪化することはないとすると、42万人というのは、「多少は根拠のあるパラーメーターの下での」最悪のシナリオを計算しているということになる。つまり、「政府がいろいろな対策を実施したり、コロナの治療方法が改善したり、人々の行動パターンが変化することを織り込んだうえでの(起こりうる)予測」ではなくて、「政府は何もしないし、人々も行動を変えないし、医療技術も進歩しないという極端な仮定の元での(非現実的な、ワーストケースの)予測」ということだ。そのように計算された数字であるので、実際の数字(厚生労働省によると今の時点で3,932人)が42万よりずっと少ないことは、モデルが間違っているとか、この計算をした人が無能だということを示すわけでは決してない。

そうはいってみたものの、この数字の出し方には問題があると思う。一番深刻なのは、このモデルがどのくらい間違っているかを確かめようがないという点だと思う。今の時点死者の数が4000人未満で済んでいるのを見て、人々はどう考えるだろうか?楽観的に考えるのであれば、「ああ、最悪の結果の死者42万人を避けることができてよかった。政府もみんなもいろいろな対策をしたおかげだろう。これからもいろいろ対策を続けていこう!」と皆考えてくれることであるが、おそらく、多くの人は、「なーんだ。42万人とか言っておいて、実際は4000人も死んでないじゃん。コロナって大したことないな。」と考えるのではないか。

言い方を変えると、モデルの検証のしようがないから、モデルの信頼性がどんどん損なわれていくのである。「42万人という数字は現実的なシナリオに基づく予測ではない」とだけいう代わりに、ある政策を実施した場合に42万人という数字がどのように変わるか、という(policy elasticity)のも計算し、現実的と思われるシナリオでは42万人ではなくてXX人です、というのを強調しなかったから(示していたのかもしれないが、全然広まらなかった)今のような状況になったのだろう。その一方、おそらくは、現実的なシナリオの仮定の下に死者数を予測していたら、大きく外れていた可能性が高いので、そうすると、予測をした人は信用されなくなり、みな彼のいうことを聞かなくなるだろうから、現実的なシナリオの下での死者数予測をしなかった、あるいは強調しなかった、ことは十分理解できる。

経済学的に書くなら、死者数が(一定の再生産指数、一定の死亡率)だけから計算される単純なモデルではなくて、(何もしなかった場合の再生産指数・死亡率、コロナに対処する医療技術、会社に行って仕事する人の割合、レストラン等の稼働率、大規模なイベントの人数の上限)のようないろいろなパラメーターに依存するモデルを作って、広めるべきだったと思う。そうすれば、政府がわけわかんない政策をいろいろ実施した時に、それがどのくらい感染者数や死亡者数を引き上げたかがわかるし、モデルの正しさがが検証可能になった。あるいは、モデルを敬座奥的にアップデートして改善することができた。経済学でよく言われている言葉だけれども、「間違っていることを検証できないモデルは、間違ってるモデルより役に立たない」、という話だ。

この話は、(ゼロ金利制約に引っかかっているときの)金融政策の効果の話と似ている。日本銀行が大規模な非伝統的金融政策を実施しなかったら、日本のGDPは20%下がっていた、みたいな話も(20%という数字は適当だけれども)、威勢はいいけどクリーンには検証のしようがない。

(現実には決して実現しない)シナリオの下での予測というのはとっても簡単で、間違っていることを証明しようもないから本人もリスクを負わずにセンセーショナルな数字を発表できるものであるから、あんまり信用するべきではないと思うし、信用されなくなくなっていくのはまっとうな方向性だと思う。大きな数字だったから人々を怖がらせて、コロナのダメージを小さくすることができたという議論もある。アメリカでもそういう議論がなされているのを聞いたことがあるが、そういうのは政府がすべきことであって、学者のすることではないと思う。

あと、なんだからわからないけど、この話に絡んで「ルーカス批判」に対する批判も目にした。「ルーカス批判」なんてコロナの文脈で経済学者の誰かが口にしたのであろうか。「ルーカス批判」について批判するのはかっこいいかもしれないけれども、ピントがずれていると思う。コロナについてある政策を実施したときに、家計や企業がその政策の効果を打ち消す方向で行う行動が、コロナの文脈で重要だろうか?個人的にはたいして重要ではないと思うし、そんなことを強調しているモデルも見覚えがない。

What Do You Need to Get a Job at U of Tokyo?

仕事の都合上、経済に関する投稿ができないので軽いネタでまた書いてみる。

ある方が、日本で就職先がないから帰れない、というようなことをtwitterに書いていた。全然知らない人だけど、CVを見てみたら、すごい、うらやましい、という感じである。これだったら、日本の大学だったらどこでも帰れるんじゃないかなぁ、と思ったので、試しに、東大の経済学部のFullあるいはAssociateだったらどのくらいの業績があるのか(東大の経済学部にテニュア付きで就職するにはどのくらい必要なのか)、安田さんのリストを使って調べてみた。

東大の経済学部で、専攻がミクロと計量以外で、1990年以降学部卒業(とリストに書いてある)人に限定してみた。ミクロと計量を除いたのは、これらは基準が異なるかもしれないと思ったからで、1990年以降学部卒業の人に限ったのは、時を経て基準が変わってきているかもしれないと思ったからである。それらの人について、安田さんのリストの星の数(5つそれなりのジャーナルにパブリッシュするごとに1つ付くはず)、およびトップ5にパブリッシュしたか(1はトップ5あり、0はなし)、そしてそれらのポイントの単純な合計を出してみた。元のデータは面倒くさくて見ていない。もちろん4つと5つで大きな差が出るのは問題だけど、トップ5がそれなりのジャーナル5本分というのは悪い換算レートではないような気がする。それに、大学院時代に書いたペーパーや、共著者の多いペーパーはディスカウントするという考えもあるし、ペーパーの影響力(≒引用数)も重要なのはもちろんだけれども、そんなことをやっている時間はないので許してほしい。以下がその結果のリストである。ポイントの高い順に並べてある。


就職先がないと言っていた人は1ポイントなので、少なくとも、このポイントシステムだと半数以上の人と同等か上ということになる。おそらく、東大に就職できるのであれば、他のところもいろいろオプションはあるだろうから、アカデミアで就職先が見つからないということではないのだろう。

東大に就職したいならば、トップ5にパブリッシュし、それなりのジャーナルに5本載せれば、それなりに可能性は高いといえるのでは。

On Referee Report

今年の9月に、Econometric Society(ES)の3ジャーナル(ECMA, TE, QE)のエディター連名で、ESのジャーナルにパブリッシュされるペーパーが長くなりすぎているので、短くしていくという意向が表明された(リンクはここ)。このメールによると、Econometricaの平均ページ数は1970年代には12ページだったのが、今はOnline Appendixを除いても36ページになり、50ページを超えるペーパーも多いらしい。確かに、長いペーパーが多くてげんなりすることが多い。ESのエディターとしては、ペーパーの長さを、現在の30-40ページから20-30ページにしたいということである。そのためにも、レフェリーも、あまり多くのことを要求しないでほしい、と書いている。ペーパーが(Appendixも含めて)長くなっている理由の一つは、レフェリーがいろいろな追加の分析、頑健性のチェックを要求する(こともあるし、それに対抗して、これでもかといろいろな分析を最初からペーパーに加えておく)からである。

これと連動して、Econometricaのマクロのエディターから、レポートをこういう風に書いてほしいとの連絡がきた。そのメールには以下のようなことが書いてあった。
  • レポートは必ず6週間以内に提出してほしい。そのかわりに、あなたがサブミットしたペーパーも素早く決定を下す。
  • レポートは (1) ペーパーの要旨、(2) 非常に重要なポイント(Essential Point)、(3) (その他の、ペーパーを改善するための)提案(Suggestion)、の3部構成としてほしい。
  • 「要旨」は今までと同じように書いてほしい。
  • 「非常に重要なポイント」は、この点が改善されればペーパーがトップジャーナルに載る価値があるものになるという点に絞って、3点まであげてほしい。4点以上ある場合は、そのペーパーはリジェクトされるべきだ。あなたの評価がリジェクトであれば、「非常に重要なポイント」はリジェクトを提案する理由が書かれるところとなる。
  • 「提案」は、「非常に重要なポイント」以外の、ペーパーを改善するための提案である。現在のレフェリーレポートはここが80%を占めていると思う(つまり、現在のレポートには本当に重要ではないことがたくさん書かれている)。
  • Econometricaはしばしば「Econometricaらしい」ペーパーがパブリッシュされるところと考えられているが、最高のマクロのペーパーをパブリッシュしたいだけである。AERに載る価値があるとあなたが思うペーパーをEconometricaはパブリッシュしたい。
このメールで提案されているレフェリーレポートの書き方のバックグラウンドペーパーとして、"How to Write an Effective Referee Report and Improve the Scientific Review Process"(by Berk, Harvey, and Hirshleifer, JEP 2017)というペーパーが挙げられていたので、読んでみた。いくつか参考になったポイントを以下にメモしておく。このペーパーは、著者らが、過去のAER、JPE、QJE、ECMA、REStud、JFEのエディターに、経済学のレビュープロセスをどのように改善したらよいかヒアリングした内容をまとめることで構成されている。
  • あるペーパーがパブリッシュに値するかは、(1) そのペーパーが重要な質問に答えているか、(2) そのペーパーが既に分かっている結果から大きく前進しているか、(3) その結果が正しいか、である。レフェリーは(3)に注力しすぎな印象を受ける
  • 若い研究者は、レフェリーしているペーパーをぼろくそに(意訳)批判することで、自分がいかに優れているかを見せつけようとする傾向がある。これ、やるなぁ、と反省している。
  • レフェリーレポートは(ペーパーがアクセプトされるかリジェクトされるかを決める)「非常に重要なポイント」と(それ以外の)「提案」に明確に分けるべきである。(この提案がEconometricaのエディターの方針として採用されている)
  • 「この証明は信じられない」とか「この結果は間違っているような気がする("smell")」とか「結果が直感と異なる」という理由でリジェクトを提案するレフェリーがいるが、レフェリーも説得力のある、論理的な理由をあげなければならない。
  • レフェリーがリバイズを提案するということは、(1) そのペーパーは(問題点が解決されれば)パブリッシュされる価値がある、(2) ただし、今の状態ではいくつか問題がある、(3) これらの問題は解決が可能である、という評価にコミットしたということである。第2ラウンドのレフェリーを行う場合は、そういうコミットをしたということを頭に入れて書かねばならない。例えば、第1ラウンドで指摘しなかった問題を指摘するのは契約違反である。
  • レフェリーが追加的に何かを行うように要請するときには、それを実施するコストを考慮しなければならない。
  • 自分がレフェリーを依頼されたペーパーととても関連している研究をしていて、レフェリーレポートから自分が誰かわかってしまう恐れがあるときは、エディターに相談するべきだ。レフェリーをしないという選択肢もあるし、レフェリーにはならずとも、エディターに個人的にペーパーについての意見を伝えるということもできる。
  • ペーパーの著者と個人的な関係がある場合、自分が競合しているペーパーを書いている場合、もエディターに知らせなければならない。
  • もしペーパーが明らかにジャーナルが求める質よりかなり下のレベルにあるときには、1ページの短いレポートをすぐに返すと、皆の時間の節約になるかもしれない。
  • (エディターだけが見る)カバーレターは、レポートのCopy and Pasteでは意味がないが、レポートと整合的でなければならない。レポートでは素晴らしいペーパーとほめておいて、個人的にリジェクトを勧めるようなレフェリーもいるらしい。カバーレターは次の3点から構成されるのが望ましい。(1) ペーパーの貢献(エディターがペーパーの分野の専門家ではないかもしれないことを考慮すべき)、(2) 分析に説得力があるか?、(3) ペーパーはリジェクトされるべきか、リバイズを要請するか。後者であれば、1回リバイズすればアクセプトされるべきペーパーになるか。
  • (ペーパーが自分の専門とちょっとずれている等の理由で)自分の意見に確信がない場合、その点も明確にするとよい。
  • レポートは簡潔なほうがよい(例えば2-3ページ)。
  • レポートの中のコメントには、参照がしやすいように、すべて番号をつけるべきである。

Against Marxist Economics

まだリハビリモードなので、またしても、とりとめのない雑談を。

最近、東大経済学部がマルクス経済学の教員を採用しないという決定をしたという記事が(発言者の意図が正確に伝わっていなかったようだけれども)流れていた。個人的なことを書くと、僕は、楽に卒業できるし、就職がいいだろうなと思ったからとりあえず東大の文IIに入学したんだけれども、必修のうち半分がマルクス経済学(およびマルクス経済学色の濃い経済史)だったこと、あと「近経」の最初の必修の授業であったミクロ経済学も、理論のみの教科書をそのまんま棒読みで進んでいくだけでむちゃくちゃつまんなかったことから、こんな学部で大学時代の貴重な時間を過ごすのは完全に時間の無駄だと思って転部した経験があるので、明示的な決定ではなくてもマルクス経済学の色が弱まっていく方向に向かっているのは好ましく思う。今はわからないけれども、少なくとも僕の分野でいえば、東大のような、アジアでもトップから遠くはなくて、世界的にもまぁまぁ悪くはない大学で、学生にこのような授業を強制するのはまったく理解できない。

アメリカを見てみても、いわゆる世界で高評価を得ている学校で、マルクス経済学の教員が充実しているところなど、寡聞にして聞いたことがない。日本の大学の近い競争相手であるシンガポール、香港、とかの学校でもマルクス経済学が充実している学校なんてあるのかな(韓国の大学はセミナーとかで訪問行ったことがないので知らないけれども)。アメリカの場合は(ほかの国でもそうだろうとは思うのだけれども)いわゆるヘテロ経済学(マルクス経済学とか、世界システム論とかいったやつ。ヘテロマクロではない)を売りにした学校があるけれども、いわゆるトップスクールでヘテロ経済学を売りにしたところはないと思う。

でも、何でマルクス経済学がトップスクールにあってはいけないのかというと、これは別にどの学問が正しいという話ではなくて、世界のトップの学校の大部分は、世界の最先端の経済学を使い、国際的に認められた学会にアクセプトされ、国際的に認められた(英語の)雑誌にパブリッシュしている人を採用しているので、それに従うと、マルクス経済学の人にはそういう人がいないからだということではないかと思う。いわゆる「ケインジアン」(NKではない)でも、ケインズの解釈学のような古めかしいスタイルで研究している人はトップの大学で採用されるべきではないのと同じ理由である。そもそも、マルクスがこう言っているとか、ケインズがこう言っているとかを重視する、属人的な学問(経済学史も含む)をする人や、いちおう「近経」のようなことをやっているとしても国際的な競争に参加せずに本しか書かない人も、同じ理由で、トップの経済学部にいるべきではない。その一方、「ケインジアン」という人でも、Roger Farmerのように、一流のジャーナルにパブリッシュし続けて、一目置かれている人もいる。経済史でも、なんだかなぁという人も多いが、理論をちゃんとわかっていて、一流のジャーナルにパブリッシュする人は話してて面白いが、そうではない人もたくさんいる。マルクス経済学でもケインジアンでも世界的な評価のスタンダードでみて優れた人があれば、色眼鏡で見ずに、何本どこにパブリッシュしたかで採用すればいいだけの話だと思う。マルクス経済学っぽいことをやっていても、トップ5にパブリッシュして、安田さんのリストで星がいくつかついているような人であれば採用すればいい。

多分、学生へのサービスという観点からみても、(今現在)学生の将来に役に立つのは、物事をモデル(理論)を通してみることができるようになること、相関関係と因果関係の違いをちゃんと認識し、データをどのように処理し、解釈するかを学べること、(そのための)コンピューターの使い方を学べること、英語が使えるようになること、とかであろうから、そういう側面が重視される経済学を研究している教員を積極的に採用していると、自然とマルクス経済学の人は採用されません、ということになるんじゃないのかな。今時、学生でマルクス経済学の授業出て役に立ったなんて言う人がいるのだろうか?

もちろん、世界のトップがこうしてますという理由が常に正しいとは限らない。後から考えてみたら、世界のみんなで間違った方向に進んでいて、将来はどのような分野・研究者がトップの大学に採用されるべきかという面で見直しがなされるかもしれない。ただ、それを理由として、世界のトップの大学で採用されている物差しでは採用に値しない人も「多様性」の観点から採用していこうというのは間違っていると思う。そんなことを言い出したら、誰でもいいということになってしまう。

将来、世界のトップの大学が経済学者を見る基準が変われば、その時に、新しい方向に沿うようにシフトすればいい話である。今現在世界で何が評価されているかを評価基準とするのは危険がもちろんあるが、何か客観的な評価基準に従わないと、ろくなことにならない。いろいろなアプローチをバランスよく学べることは重要だと思うのだけれども、そんなことに気を使ってばかりいるとろくなことにならないと思う。

Nobel and Aiyagari

超久しぶりになるが、ホリデーシーズンで雰囲気ものんびりしているし、リハビリも兼ねて、柔らかいネタで書いてみる。

ノーベル賞が10月14日に発表されて以降、受賞者の業績等についていろいろ見聞きする機会があったが、その騒ぎも収まってきた。自分は特にいろいろな分野をよく知っているわけではないので、自分の分野外の人が受賞したときは、普通の人と同じように、へぇ、と言う感じで終わってしまう。とはいえ、今辺りに、次のノーベル賞は誰かな、という会話がなされることが多い。ちょうどこの時期に、来年の賞の候補者の推薦をお願いするメールが世界中の一流の経済学者に届くからだ。僕には関係のない話だけれども、この時期に一流の学者連中と飲みに行くと、来年は誰がいいかなぁという話になりやすい。

今回は、皆でビールを飲みながら、マクロは次どのような分野かなという話になった。そこで、ヘテロマクロが取れるとしたら3人はどう選べばよいか、という話になった。あるとしてもまだまだ先の話だと思っていたけど、今年の受賞者を考えると、順序とかどうでもいいじゃん、という感じらしい。こういう話になると、残念だなぁと思うのは、アイヤガリが若くして亡くなってしまったことである。彼が入らないと、どのように3人選んでも何か物足りなくなってしまうように感じられる。

といったら、そうでもないんじゃないかという人もいた。ちなみに、今や経済学では、アローやサミュエルソンのような(ルーカスも入るのかな)、いわゆる誰でも知っている巨人のような人は今やいないので(僕なんて今年の受賞者の論文なんて、KremerのQJEのGrowthのペーパーしか読んだことない)、経済学以外の分野のように、大きく発展した分野を選んで、その中で貢献度が大きかった3人を選ぶような感じになっていくのではないか(アイヤガリがいなくてもいける)と言っている人もいた。

この話から続いて、アイヤガリがどのような人だったかというのをいろいろな人から聞いたんだけれども、彼のオフィスはモノが全然机の上に出ていなくてとてもきれいだったらしい。僕も、いつでも次の職に引っ越しできるように、パソコンに入らないモノは全然買わないしオフィスにはモノは残さないし、机の上には何も置かない性格なんだけれども、なんとなく、頭のいい人は机がごちゃごちゃしているといつも思っており、ごちゃごちゃしているのが嫌いな自分としてはちょっと残念に思っているので、自分があこがれる人の机がきれいだと嬉しくなる。ある人は、アイヤガリのオフィスを訪問したところ、机の上に彼の3つのペーパーだけが置いてあり、どのペーパーについて議論したいか選ばされたらしい。かっこいいな。

ほかに聞いた話としては、アイヤガリは、1981年にPhDを取ってからしばらくしてミネアポリス連銀に戻ってきて、1994年の超有名なペーパーをはじめとして一連のペーパーを完成させて、亡くなる直前にロチェスターに移ったんだけれども、ミネアポリス連銀に戻ってくるまでの間、研究で結構苦しんでいたらしい。苦しんでいたといっても僕のような二流経済学者とはレベルが違うんだけれども、これくらいすごい人も苦しんでいたという話を聞くと、自分がいい論文全然かけなくて苦しんでいるのは当たり前だよな思わされる。がんばろう。

Rise of Administrative Data in Economics

経済学の問題点を指摘したシリーズ(典型的な、あまり深みのない経済学批判なので取り上げもしなかった)に代表されるように、最近は質が落ちてきているという話が聞かれるEconomist誌が、経済学関連のめずらしくタイムリーな記事を載せていたので言及しておく。

経済学におけるサーベイデータ(Survey Data)から行政的データ(Administrative Data)へのシフトについてである。記事は二つになっており、これこれである。これまでは、経済学者は、主に、政府(あるいは民間が主体のこともある)が定期的に実施するインタビューに基づいてつくられたデータ(サーベイデータ)を主に使ってきた。但し、最近は、サーベイデータの質の低下が認識されてきている。その背景にある大きな要因は、返答率の低下である。
上のグラフはEconomist誌から引用させてさせてもらったものだが、アメリカ、カナダ、UKの代表的なサーベイデータの返答率(インタビューしたら答えてくれた人の割合)の変化を示している。どのサーベイデータの返答率も低下傾向にある。たとえば、アメリカの家計の消費動向を1980年代から追っている貴重なデータであるConsumer Expenditure Surveyの場合、返答率は2001年の80%をちょっと下回るレベルから2016年は63%くらいまで低下している。これがなぜ問題かというと、答えてくれる人が少なかったり、答えてくれる項目の数が減った場合、その減少を補うために、専門家が、入手できなかったデータを推定しているのであるが、推定しなければならないデータの数が増えれば増えるほど、まぁ、そのデータセット自体が当てにならない度合いが高まるのは想像がつくであろう。実際に、記事では、サーベイデータと他のデータとの整合性が以前より低下してきていると指摘している。さらに問題なのは、返答をしてくれない人の特徴が、返答をしてくれる人の特徴と異なる場合、返答してくれた人のデータに基づいて返答してくれなかった人のデータを推定しようとすると、間違ってしまうということである。

このような問題を受けて、経済学では、行政データ(政府が何らかの目的のために集めたデータ)を使う頻度が高まってきている。
上のグラフは、NBER(全米経済研究所、アメリカの有名な経済学者が多く所属してワーキングペーパーを出している、もっとも有力な経済のシンクタンク)のワーキングペーパーの要旨において、「行政データ」という言葉が使われた頻度を追ったものである。2000年ごろまではほぼゼロだったが、2017年には30近いワーキングペーパーで使われるようになっている(例えば、2017年のワーキングペーパーの数は1163なのでワーキングペーパー全体に占める割合はまだ小さい(2.4%)が、とても速いスピードで増加しているのは見て取れる)。

行政データは、サーベイデータのように、返答率の低下や返答の質の低下で悩まされることはないが、別の問題点がいろいろある。1つ目は、行政データはある目的のために集められたものなので、経済学者が、例えば全国民からランダムにサンプリングされたデータが欲しいと思っても、必ずしもそういうものが手に入るわけではないということである。例えば、代表的な行政データは税の申告のデータである。これを使うと、税を申告した人の所得が正確に把握できる。しかし、国民全員が税を申告する必要がなければ、経済学者が欲しいデータとは異なることになる。それに、税を申告する際には、年齢や性別や家族構成という情報を提供しないので、そういう情報も組み合わせたい場合には簡単には対応できないということになる。ただし、アメリカの場合、社会保障番号(マイナンバーってよく知らないがそのようなものだと思う)を使って、税のデータと別のデータと組み合わせることで、税を申告した人の所得、家族構成などが把握できるという方法が開発されている。

2つ目は、このデータは使うためには、そのデータを使わせてくれる人を知っていなければならなかったり、バックグラウンドチェックなどいろいろな手続きを経なければならないので、既に地位が確立されていて、リソースやコネがある人が有利になるということがある。ちょっと前のエントリで触れたが、Raj Chettyはすごい行政データを使った研究を進めているが、これは、彼だから使えるという側面が多分にある。いい悪いは別として、経済学者間で富むものがさらに富むようになるという現象を生み出している。

3つ目は、上の点に関連するが、行政データを使ってある論文を書いて、例えば、その論文をジャーナルに送ったとして、エディターあるいはレフェリーには、結果を検証する方法がない。論文が出た後で、誰かが追試しようとしても、元になった行政データにアクセスできない限りどうしようもないのである。行政データを使っている人がいい加減なことをしているといいたいわけではないが、あるデータのクリーニング方法、その他手続き、あるいはモデルの仮定をちょっと変えたら結果が大きく変わるなんてことはよくある話なので、あとで追試できないというのはとても大きな問題点である。

もちろん、学会というのは、今後の経済学の方向性を変える可能性のある、起業家精神に富んだ行動に対して大きなインセンティブを付けるものなので、これまで使えなかったデータを使えるようにした人に報酬(パブリケーション)で報いるべきなのは当然なんだけれども、経済学会が上で挙げたようなイシューにどのように対応していくかは、興味深い。

Some Papers by Stars in the Upcoming Market

このシーズンになると、ジョブマーケットに出るPhDキャンディデートの論文を見る機会が増えてくる。たぶんいいところに就職するであろう人たちのペーパーをいくつか見たので軽くメモしておく。よくわかってないものも多いが許してほしい。以下でも2つ挙げているが、最近は(自然)実験のデータをもとに構造モデルを作って、実験では見られない効果あるいは実験で得られた効果の背後にあるチャンネルの分析を行うような論文をよく見かける。

Daruich (NYU)
RCTなどにより、幼児教育への政府による財政補助の効果は大きいといわれているが、これまでの結果は、政策を大規模に実施したときに必要な税率の引き上げに伴う不の効果、および、政府の財政支出の増加によって子供の教育・所得水準が上がり、その子供が親になってさらにその次の世代の子供の教育水準を更に引き上げるという長期的効果を考慮できていない。このペーパーでは、親が子供に投資して子供の教育・生産性に影響を与え、更にその子供が親になってモデルが続いていくという一般均衡モデルをつくり、それらの効果を分析する。モデルの中で、税を引き上げる必要のない小規模なRCTを行うと、短期的な効果は実際のRCTの結果と整合的である。このモデルによると、税率の引き上げの不の効果は比較的小さく、子の教育・所得水準が上がって、その子が親になると更に次の子供の世代の教育・所得水準を引き上げるという長期的な効果はとても大きい。所得の不平等が政策によってどのように変化するかも分析される。

Cho (BU)
NKモデルの問題点のひとつとして、TFPショック以外のショックだと、消費と投資が反対方向に動いてしまうというものがある(いわゆるCo-movement puzzle)。このペーパーでは、失業のリスクが内生化されたモデルを使うと、予備的貯蓄動機が変化することで、co-movement puzzleを解決することができることを示す。通常のモデルでは、投資の生産性に対する負のショックがあると投資が減少するが、一方で生産自体が減少しないと消費は増えてしまう。但し、企業が投資を控えると同時に、生産を縮小するために求人も減らすというチャンネルを導入すると、失業者がすぐに職を見つけられる可能性が低くなり、労働者はそのような長期的な失業という状況に備えるために消費を切り詰め、貯蓄を増やそうとする。このようなモデルでは、投資の生産性が下がったときに、消費も減少し、co-movement puzzleが発生しない。

Engbom (Princeton)
ここ30年くらい、アメリカ(およびその他の先進国)で、労働市場のダイナミズム(新しい起業の数、別の企業に移る労働者の数等)が失われているといわれており、同時に、経済成長率も低下している(Secular Stagnation)。この現象を、高齢化→起業の減少→労働者が同じ企業にとどまりがち→その企業に特殊の技能を身につけて賃金が上がるので、起業したり別の会社に移ったりするインセンティブが下がる→起業の減少、というチャンネルで説明する。モデルは、労働者が次々と新しい企業に移るモデル(Moscarini and Postel-Vinay)にライフサイクルと起業のオプションを組み込んだもの。アメリカの州による高齢化のスピードの違いを使って、高齢化が経済成長に与える影響をデータでも分析。

Li (Chicago)
アメリカの2000年代の始めに、MBS(Mortgage Backed Secuirty)などのABS(Asset Backed Security)のトランシェ(資産を切り分けてリスクの高いものやリスクの低いものを作り出すこと)が盛んに行われたが、これは、逆選択(資産の価値がわからない買い手がリスクの高い資産を低い値段で買わされること)を緩和し、資産の流動性を高めるのに役立つので、均衡で起こりうることを示した。

Agostinelli (ASU)
Chetty and Hendren (2016)による有名なペーパー(子供の所得の高い地域に引っ越した家族の子供は将来所得が高くなりがちである)を元に、子供が別の学校に移ってこれまでと違うグループの友達と付き合うようになると、親が子供にかける時間がどのように変化し、そしてそれが子供の成績にどのように影響するか、を構造モデルを使って分析した論文。

Tsivanidis (Chicago Booth)
コロンビアの首都ボゴタで、2000年に高速バスネットワーク(道路にバス専用レーンを作ったりしてバスによる通勤を大幅に速くした)が導入された効果を、構造モデルを使って分析した論文。ボゴタの2800の区域の人々がこの高速バスネットワークの導入によって、どのように通勤パターン(車を使うかあるいはバスを使うか)あるいは働く場所を変えたか、企業がオフィスを設置する場所はどう変わったか、それぞれの区域の地価はどう変わったか、を見ることができ、いろいろな区域に住んでいる人がこのネットワークによってどのくらい得あるいは損をしたかを分析できる。

Fanelli (MIT)
近年は各国が、さまざまな通貨建ての巨額の資産・負債を保有しているので、たとえば金融政策によって為替レートが変化すると、対外資産・負債の価値が変わることで巨額の移転が発生することから、金融政策を考えるにあたっては保有資産・負債の価値への影響を分析する必要がある。この論文は、名目価格の硬直性があると同時に、資産・負債の通貨構成も変えられる状況で、最適な金融政策を理論的に分析している。鍵となるのは、通常の需要管理的な金融政策の効果と、為替レートの変化を通じた所得移転を使った保険の効果のバランスをどうとるかということだ。

On Golf and Academia

あまり考えずに書いた、ちょっと軽い話を書く。
  1. 時々誰かがこういうことをTwitterでつぶやいているのを目にするけど、研究者というのはスポーツ選手と比べることもできる。スポーツといってもいろいろあるんだけれども、研究、特に経済学は、個人スポーツの色が濃く、国際化が進んでいるので、ゴルフやテニスとよく似ているなぁと思うことがある。
  2. ゴルフで考えてみると、どの国の出身でも世界のトップはアメリカやヨーロッパのツアーを一人で転戦している。まぁ、自分のチーム(研究者の場合家族)で回ることも多い。日本にもれっきとしたツアーが存在し、アジアのツアーやオーストラリアのツアーも存在する。どこを回って賞金を稼ぐかは自分しだいだ。アメリカのツアーに比べると日本のツアーの賞金は少ないけれども、日本の居心地の良さは捨てがたいというプロもいるのではないだろうか。家族のことを考えて海外ツアー転戦を止める人もいるだろう。
  3. 日本のツアーしか回っていなくても、日本でトップに立っていれば、アメリカのメジャーに出られたりする(少なくともゴルフではそうなんじゃなかったかな…)、これは、日本で活動していつつトップ5に載せることと似ている。時々アメリカや欧州に客員研究員として滞在するのは、アメリカや欧州のツアーにスポット参戦するのとほんのちょっと似ている。
  4. 優秀なプレーヤーは企業からお金をもらってプレイしたりする。帽子にロゴをつける代わりに、研究発表するときや論文が出版されたときに謝辞をつける。大学でChair Professorになったりするのも似た話だ。
  5. ゴルフと違うのは、一流のプレーヤーが腕を上げて人類の知識の境界を押し広げることが人類の役に立つと考えられており、政府(税金)で補助されていることである。たぶん、ノーベル賞をとるとまでは言わなくても、世界で最先端の研究をしている一流の研究者にお金を多く配分することで、ゴルフの腕の磨くインセンティブを高め、実際に一流のプレーヤーは有り余るお金を使ってその腕をさらに磨くことが望ましい。
  6. ツアーの賞金で生活できない人は、レッスンプロとなる。レッスンプロの需要も大きい。ツアーで上位にコンスタントに入れないような人は、たぶんレッスンプロとしてやっていくほうがお金は儲かるだろう。
  7. レッスンプロの比喩があっているなら、レッスンプロに補助金を支給してもあまりしょうがない。ツアーで食べていけない人であれば、レッスンで稼げばよいし、そういうレッスンプロに補助金を入れる必要はない。レッスンプロでも食っていけなければそもそもゴルフをしているほうが間違っているといえるだろう。
  8. ここで、また研究者(経済のことしか知らないので経済学に限るが)がゴルフのプロと異なるのは、研究者の場合、レッスンの意義もかなり高いと考えられていることである。アメリカや欧州のツアーを回っている一流のプロも(ツアーの合間に)レッスンをやっている。ゴルフと違って、いい弟子を育てることで、自分のゴルフの腕が上がったり、いい弟子はキャディになってもらうことで自分の成績を上げられたりする、と考えればよいだろうか。
  9. 但し、レッスンは、プレーヤー個人にとってメリットがあるというだけでなく、人類全体のゴルフの腕が上がることもいいことだという認識が共有されているのがゴルフとの大きな違いである。よって、それなりの質と数のレッスンプロが確保されていることも重要になってくるので、政府がゴルフスクールに対して補助金を投入することが一般的に支持されるようになる。
  10. さらに付け加えておくと、経済学の場合、一流のプロであっても、ちゃんとレッスンもしないといいプロと認められない(ので高い賞金が得られない)側面もある。
  11. このような比喩を元に考えてみると、重要な目標は、一流のゴルフプレーヤーの腕を上げてもらうことなので、特に政府の財政状況が切羽詰っている現状では、一流プレーヤーに傾斜的に大量の補助金を出すことは理にかなっている。特に、日本の場合、個々人の賞金(給料)の差が成績によってあまりつかないように見えるので、それを保管するという意味でも、傾斜の激しい配分が重要ではないかと思う。とはいえ、それなりの質のレッスンプロもある程度いないと困るので、レッスンプロやゴルフスクールには最低限の補助金を出さなければならないのも理にかなっているといえるであろう。
  12. あと2つゴルフとの違いをあげておこう。ひとつは、腕が落ちたシニアがなぜかツアーに居座り、補助金をもらっていたりすることであろう。一流のツアーで競争できないシニアはレッスンプロになってもらって、レッスンプロに見合った報酬にするのがいいのではと思われる。経済学ではシニアツアーの年齢でもバリバリ現役で活躍する人も多いが、補助金だけもらってツアーでぜんぜんいい成績を残していない人も多い。
  13. もうひとつは、ゴルフのレッスンの本を書いたり、レッスンあるいトーナメントの解説のためにテレビに出たりする人が、世界で活躍する(松山のような)プレーヤーより有名なんてことはゴルフではありえない(かなり有名なレッスンだけのプロもいるがそういう人はゴルフをやっている人(の一部)しか知らない)が、経済学では普通にあることである。一流のトーナメントで活躍する人たちが(彼らの時間を割かない形で)もっとマスコミなどにフィーチャーされるといいのだが。ノーベル賞をとったときだけ騒ぐのは、マスターズをとったときだけ騒ぐようなもので、なかなかある話ではない。

On Creating Market for Food Banks (from NPR)

ついでに、NPR(National Public Radio)のポッドキャストで最近聞いて面白かった話題について書いておく。このリンクがそのポッドキャストの関連情報である。フードバンクは、企業あるいは個人から食料の寄付を受け付けて、それらを食べるのに困っている人に配布している慈善団体である。食料の寄付を受け付けて配布するというのは教会もやっているが、教会と違って全国で展開しているので、あるフードバンクで余った食料を別のフードバンクに送るようなこともできる。

ここで問題となるのは、どのフードバンクが何を必要としているかについてのローカルの情報が全国で共有されていないので、どこに送っていいかよくわからなかったり、必要ないものを送ってしまうということが頻繁に起こることであった。NPRでは、生鮮食料品がほしいアラスカにピクルスが大量に送られてきて困ったという話や、(ジャガイモの有名な産地である)アイダホにジャガイモが送られてきたという話が紹介されていた。

解決策としては2つ考えられる。1つ目は、全国のフードバンクで必要としている食料のリストを中央で管理して、中央が配分を決めることである。1つ目は、これが経済学者の普通の反応だろうが、寄付された食料のマーケットを作ることである。フードバンクはマーケットを作る解決策を選び、なかなかうまくいっているようだ。フードバンクがマーケットを作るにあたっては、シカゴ大学ビジネススクールのCanice Prendergastらが協力したといっていた。

具体的には、各フードバンクは架空の通貨を渡され、その架空の通貨をeBayのようなオークションサイトで使うことができる。その架空の通貨の量は、それぞれのフードバンクがどのくらい食料が必要かに応じて配分される。フードバンクだけが参加するそのeBayのようなサイトにほしい食料が出品されていたら、その食料に対して架空の通貨でいくら払う気があるかを入力する。入札が締め切られると、その翌日に、誰が競り落としたかがわかる仕組みになっているようだ。このシステムの導入によって、アラスカでほしい生鮮食料品が手に入るようになったと紹介されていた。

詳細はポッドキャストではわからなかったが、こういう話を聞くと、フードバンクのマーケットの中でさやとり(arbitrage)をするフードバンクが出てきたりとか、フードバンクの外のマーケットとの間でさやとり(予想通り、フードバンクのマーケットでは賞味期間が短い生鮮食料品は価格が低く、シリアルなど長持ちするものは価格が高くなりがちのようだ)をするフードバンクが現れるのではなどと考えてしまうが、ポッドキャストを聞いた感じではそういう活動は起こっていないようだ。そもそも、転売がされていないように聞こえた(要確認)。ポッドキャストによると、そもそも、フードバンクに携わっている人たちは、とても利他的なので、多く買いすぎてしまったら近くのフードバンクにあげたり、あるいは架空通貨が足りなくて困っているフードバンクがあったら、何か寄付してあげたりしているようだ。参加者が少なくて皆が皆を知っていて、この通貨による全ての取引が記録されて(誰でも見られるようになっている)マーケットだと、こういうアレンジメントがかなりいい結果をもたらすという理論的な結果があるのかとかぜんぜんわからないけれども、こういう、経済学者が考える解決策にありがちな殺伐とした感じがなくて、うまく言っているという例を聞くととても気分がいい。

On Netflix (from NPR)

Netflixの人事政策について話題になっていたので、ぜんぜん専門外の話だけど、ちょっとメモしておく。最近NPR(National Public Radio)でNetflixについて聞いたからだ。これがそのポッドキャストに関連した記事である。たぶんIT業界や人事業界の人はずっと前に聞いた話だと思う。まぁ、久しくポストしてないからお遊びのようなポストである。

NetflixのPatty McCordという人は、Netflix創業間もないころからの従業員で人事のスペシャリストのようだ。彼女がNetflixの人事政策を説明したプレゼン資料は、たぶんNetflixが急成長してたからだろうが、そのころのシリコンバレーで知らなきゃモグリのようなものだったらしい。たぶんこのリンク先にあるのがそのスライドである。有名になったフレーズをいくつか拾い上げてみると、

  • われわれはファミリーではなくてプロスポーツチーム(子供のお遊びチームではない)である。有能な人材を雇用し、育て、(必要なくなったら)解雇することで、すべてのポジションにスターを維持できる。
  • 一生懸命働くことだけでは雇用は保証されない。
  • とても優秀な人だけを残すことで、職場がすばらしいところであり続けられる。組織が大きくなって複雑化したりすることでダイナミズムが失われたりするのを避けることができる。

こんな感じである。Netflixは結果ですべて決まるという方針を徹底しているので、休暇の取得に制限はなく、出張のために許可を求める必要もないらしい。NPRではもう少し具体的なエピソードをいくつかあげていた。たとえば、ITバブルがはじけて業績が落ち込み、120人いたスタッフの1/3を解雇しなければならなかったときには、機械的に会社への貢献度が高い人から順に解雇して、創業以来がんばってきた社員も容赦なく切ったとか、オンラインストリーミングへのシフトを進めていた頃、自前のサーバを使うのをやめて、アマゾンのサーバを借りることにした際、オンライン化を進めてきたスタッフが、サーバを内部で持たないことで過剰になってしまったので、躊躇せず首を切ったとかいう話である。

このPatty McCordという女性は、その首切りをがんがん進めた人で、Queen of the Good Goodbye (よい別れ(解雇)の女王)といわれていたみたいだ。首を切るときには、あなたは優秀だから、会社はより効率的になってあなたが要らなくなったのよ、と言ったりしていたらしい。

この話にはオチがあって、彼女も、最終的には、クビになったのである。Netflixは2011年までは、月会費8ドルを払えばDVDのレンタルもオンラインでの視聴もできたのであるが、会社を二つに分けて、それぞれが8ドルの会費を取るという形態に移行することを決めたところ、大量の(80万人)解約が起こって(僕も解約したのを覚えている)、撤回させられたのである。彼女もその失敗の中心的人物であったらしく、この失敗のしばらく後で、Netflixを離れることになったとNPRでは言っていた。

僕は、どちらかというと(日本で訓練された)長時間労働で低い生産性を補う仕事のスタイルで、かつ仕事が遅いので、こういうところではすぐクビになると思うので、こういうところには雇われないだろうし、働きたくはない。それに、ちょっと位業績が少なくても、話してて勉強になって、ナイスな人の方を、業績は優れてるけどいまいちナイスではない人よりは採用したいなぁと思う。このポッドキャストを聞いていて、シリコンバレーというか、アメリカでやっていけるタイプではないんだろうなぁと思ったのを覚えている。

Random Thoughts on "Evidence"

もともと時々しか書いていないブログなんだけれども、最近特に書くペースが遅くなってしまった。これまでは、新しいペーパーを書いたり、帰ってきたペーパーのリバイズをしたりしながら、いろんな分野の新しいペーパーについて流し読みするというスタイルできたのだけれども、1-2年くらい他のペーパーを基本的に読まずに、自分のペーパーのリバイズだけするということを試しているからである。そうしないと、放っておくとどんどんたまっていくリバイズが永遠に終わらない感じがしたからだ。リバイズのペースが上がっているような気がするので、しばらくはこの方向でやっていこうと思う。

というわけで、またも、新しい論文のレビューとかではなく、ツイッターとかでみた記事に対する感想文のようなものである。今回は、ダイヤモンド社の記事となっていた「受動喫煙に関するエビデンス」について、あまり考えず思ったことを書くだけにしておく。おそらくは、本にはもっとちゃんと書いてあるんだろうけれども、「学力」の経済学でもううおなかいっぱいで、この本を読む予定はないので、あくまでオンラインの記事だけを読んだ感想である。

  1. ちょっと最近、「エビデンス」という言葉が、正直言って(言葉は悪いが)うざくなってきている。趣旨には100%賛同するんだけれども、基本的に誠実な研究者は常にやってきたことなので、何か「エビデンス」という横文字で押し捲られると、誰でも知っていることをコンサルの人が横文字で主張してくるときと同じような違和感がある。
  2. ダイヤモンド社の記事によると、「日本人については「受動喫煙が健康に悪影響を与える」という確たるエビデンスがなかった」らしい。ところが、9つの、統計的に有意でなかった研究をまとめてメタアナリシスにすると、それが強力なエビデンスになるように書かれている。僕は統計とか計量とかよく知らないんだけれども、そういうもんなの?これで通用するなら、僕も今度、10個くらい統計的に有意でない研究を探してこようという気になる。喫煙者ではないし、そりゃ受動喫煙がいい影響があるわけはなくて、あるとしても大きい悪い影響か小さい悪い影響なので、禁止するコストが小さいなら禁止すべきであり、喫煙とかもっとしにくくなるといいなぁと日本で煙もくもくの小さいバーで酒を飲むたびに思うのだけれども、議論としては、JTの人に肩入れしたくなる。
  3. 次に、飲食店での全面禁煙が飲食店の売り上げに(負に)影響するかという議論がなされているが、それが重要なトレードオフなの?疑問である。一番重要な問題は、喫煙者が幸せになって非喫煙者が害をこうむるという外部性の問題、そして喫煙者の上司が店を選んだら断れないような話なんじゃないかと思うんだけど。
  4. この質問について日本のエビデンスはないけど、海外については、飲食店の全面禁煙は飲食店の売り上げに影響を及ぼさなかったというエビデンスがあるので、日本でもこのことは当てはまるのと考えるのが妥当であろう、といっているが、なんとなく、自分の議論に都合のいい部分についてだけ外部適用性の評価が甘いのではと考えてしまう。
  5. どちらかというと、「受動喫煙が健康に悪影響を与える」か否かの方が、国(人種)によって結果に違いはないだろうから、他の国の研究結果を日本に外部適用するのはあまり無茶じゃない気がするんだけれども、「飲食店の売り上げへの影響」というのは、各国の文化に影響を受ける面が大きい気がするので、海外の結果をそのまま日本に持ってくるのには慎重にならなければいけない気がする。特に「エビデンス」という言葉を振りかざしているのであればなおさらではないのか。
  6. あと、記事を見てて、「公共施設の全面禁煙」と「飲食店の全面禁煙」という言葉が混ざっているのに違和感を覚えた。もしかしたら議論の元になっている研究のいくつかは、「公共施設」を対象としていたり「飲食店」を対象としていたりするのかな。こういうところもっと正確にして欲しい。
(Disclosure) JTからお金をもらったりしてません。

Why the Median Professor at Tokyo University is not Publishing?

河野議員は、最近、日本のグラントのおかしな申請フォーム、あるいはグラントの使用におけるおかしな習慣について意見をTwitterで募り、いろいろ改善策を実施してくれたようで、日本の研究者の間で彼の仕事が賞賛され、話題になっていた。その一方、グラントの使いやすさを改善するなんてことをするんだから、グラントを受ける研究者側のパフォーマンスも注目するだろうなと思っていたら、やっぱりそういうことになりそうだ。

以前のポストで触れた阪大社研DP(ディスカッションペーパー)についてTwitterで意見を求めている。注目しているのは、日本のトップの国立大学の経済学部において、所属する教員の2005-2015年の10年間にトップ200のジャーナルにパブリッシュされた論文数の中間値をとるとゼロである、つまり半分以上の教員は過去10年にトップ200のジャーナルにひとつもパブリッシュできていないという事実である。ブログ記事でも触れたが、半分以上の人が過去10年に1本はパブリッシュしている機関は大阪大学の社会経済研究所(このDPを書いたところ)と京都大学の経済研究所だけである。トップ200のほとんどはかなり細分化された分野のジャーナルを含むのであまり知識が広くない僕なんて多分聞いたことないジャーナルがほとんどだと思う。

この理由については、いくつか考えられる。いくつかを挙げてみよう。

  1. 昔は英文のジャーナルへのパブリケーションが求められていなかったので、昔の人はあまりそういう業績を出そうとしてこなかった。
  2. アジアも含む海外の方が研究環境が圧倒的によいので、欧米のトップスクールでPh.D.をとった場合、若くて生産的な時期は海外で過ごして、生産性が衰えてきたころに日本に戻るパターンが多い。
  3. 従来の日本では、(国際)ジャーナルにパブリッシュせず、政策に直結する仕事をする人が出世してきた。
  4. 日本の研究環境が劣悪なので、海外であればパブリッシュできる生産的な人も日本ではパブリッシュできていない。
  5. 経済学部にはマルクス経済学(あるいは経済史)の人が多く在籍しており、そういう人たちは英語のジャーナルに載せる文化ではない。
  6. 経済学部に在籍する経営学(マーケティング、会計等も含む)の人も(日本では)国際ジャーナルにパブリッシュする文化ではない。

経済学部(あるいは他の学部)を改革するか、そしてどのように改革するかを考える際には、パブリッシュされていない理由は何か、そして、実際パブリケーションを重視する方向に移行するのか、などを考えなければならないが、これ自体も難しい問題である。

日本の経済学部で何が起こっているかを知るひとつの材料として、東京大学の経済学部がどのような構成になっているかを見てみた。何で東大を選んだかというと、日本のトップの大学であること、そして、日本の大学の特徴を考える上で典型的な学部かなと思ったからである。それに、分析というほどのことはしていないにしても、HPに載ってる人をひとりづつ見ていくのは東大だけでも大変であった。社研DPの作成に携わった人々の労力に敬意を表したい。

まずは、誰を含むかだけれども、そもそものモチベーションが社研DPなので社研DPにあわせることにした。社研DPでは、研究に特化できる環境にあるかもしれない助教ははずしているので、ここでもはずすことにした。経済学部がメインの所属ではない(と思われる)人も社研DPにあわせてはずしてある。社研DPでは、専任講師以上を含むとあるが、東京大学のHPでは「講師」と「特任講師」がある。この二つの役職が何を意味しているのか僕にはよくわかんないのだけれども、「講師」は含めて、「特任講師」は外すことにしてみた。その結果、経済学部の人数は64人であった。社研DPでは60人となっているので、もしかしたら講師とかをどうするかの判断が間違っているのかもしれない。もしそうだったら誰か教えて欲しい。

更に、社研DPではトップ200のジャーナルに過去10年にいくつパブリッシュしたかをみているが、そんなの見るのは時間がないので、とりあえずは、国際ジャーナルに載せているかは安田さんのリストに載っているかで判断した。

では、ちょっと数字を見ていこう。まずは64人の分野および役職による内訳。分野は教員一覧に記載されていればそれを、そうでない場合はgoogleで検索して出てきたページを元に決めた。その上で、分野は「近経」、「経営」、「歴史」、の3つに分類した。「経営」は、経営学、ファイナンス、会計学を含む。アメリカであればいわゆるビジネススクールに所属する分野である。「歴史」は分野の名前に歴史が含まれるもの、およびマルクス経済学はここに入れた。「近経」はそれ以外である。財政学(僕の印象では、自分の分野を「財政学」と呼ぶ人は、アカデミックなジャーナルにパブリッシュするよりも政策に直結した研究を行っている人が多いように思われる)はここに含まれる。ちなみに、教員のリストはこのポストの最後に載せてある。名前は書いていないけれども、基本的に教員一覧と同じあいうえお順なので、その気になればすぐに誰が誰かわかるようにしてある。間違い等があったら教えてくれるとうれしい。
64人のうち、近経は38人、経営系は15人、歴史系は11人である。役職別に見ると、教授は41人、准教授は11人、講師は12人である。パーセンテージでみると以下のようになっている。

では、上の表のそれぞれのセルにおいて、国際ジャーナルにそれなりにパブリッシュしている人の割合はどのくらいかを見たのが以下の表である。上で書いたとおり、国際ジャーナルにパブリッシュしているかどうかの判断は安田さんのリストに全面的に依存した。以前のポストで触れたが、安田さんのリストに載る規準は彼の判断した「一流誌」35誌に2本以上載せていることである。彼の「一流誌」35誌は、社研DPのトップ20の25誌とは異なるが、オーバーラップも多い。また、河野議員が注目した論文の出版数の中間値では、トップ200のジャーナルにパブリッシュした本数であるが、東大のようなトップの学校の研究者であれば、基本的に安田さんの「一流誌」35誌位にしか載せないのではないかと思う。更に、安田さんのリストは過去10年ではなく、キャリアを通した数字なので、過去に多くパブリッシュしても過去10年にはパブリッシュしてないケースはここでは把握できない。もちろん、キャリアの浅い若手についてはあまり違いは生み出されない。この3つが安田さんのリストと社研DPのリストとの主な違いである。
全体では、64人中、安田さんのリストに載った人(安田さんの「一流誌」に過去2本以上乗せた人)は26人、つまり、全体でみると、キャリアを通じて「一流誌」に2本以上載せた人はトップの東京大学でも半分もいないということである。この数字がキャリアを通じたものであることを考えると、河野議員が注目した事実(過去10年にトップ200誌に載せた本数の中央値はゼロ)も驚くべきことではない。上で書いたように、東大クラスの研究者であれば、主に「一流誌」に載せるので、論文の範囲をトップ35誌からトップ200誌に変えたところで結果はそんなに変わらないのではないかと推測される。

では、内訳を見てみると、教授では41人中21人が安田さんのリストに載っている。つまり、約半分の人が国際ジャーナルに2本以上載せている。更に、国際ジャーナルにパブリッシュことが(最近は)重要である「近経」に限ると、その割合は26人中20人(77%)まで上がる。逆に経営系では8人の教授で安田さんのリストに載っている人はゼロ、歴史系では7人中1人である。安田さんのリストは経済学のジャーナルに基づいているので、経営系については驚くべきことではないだろう(とはいえJournal of FinanceとJournal of Financial Economicsは含まれている)。准教授では、全体で11人中4人が安田さんのリストに載っている。教授の割合(約半分)よりちょっと低めである。分野別に見ても「近経」が6人中4人、その他の分野はゼロ人である。講師で見ると、12人中リストに載っているのは1人だけ。これは、講師の人たちはまだキャリアの序盤なので論文がたまっていないことが主要な理由であると考えられるだろう。特に、経済学の論文はレビューに時間がかかることが指摘されているので、(最初からパブリッシュしまくるスーパースターを除けば)論文が最初たまってくるまでにちょっと時間がかかることも影響しているかもしれない。

ちなみに、安田さんのリストでは、2本以上載せた人、5本以上載せた人、10本以上載せた人が区別できる。その区別をしたのが以下の表である。
「0」はリストに載っていないこと、「1」は2-4本パブリッシュしたこと、「2」は5-9本パブリッシュしたこと、「3」は10本以上パブリッシュしたことを示している。教授では、41人中、20人はリスト外、12人が2-4本、9人がそれ以上である。准教授では、11人中、7人がリスト外、2人が2-4本、2人がそれ以上パブリッシュしている。講師では12人中11人はリスト外であり、1人が2-4本パブリッシュしている。

以下が元データ(名前は載せていない)である。参考まで。
(追記1:2017年1月16日)@D_A_worksさんから数字が少し間違っていることを指摘され、修正。ありがとうございます!それに幾分加筆した。とはいえ、全体的なメッセージには影響はない。
(追記2:2017年1月16日)@nii_tsukuさんより、リストの20の方は既に東大から移動しているとの指摘を受けた。ありがとうございます!但し、一人ひとりチェックするのは大変なので、東大経済学部がホームページに記載している教員一覧に基づくこととており、おそらくはそのリストがアップデートされていなかったことによると思われる。

Tony Atkinson: 15 Proposals

Tony Atkinsonが2017年の1月1日に亡くなった。Atkinsonといえば、今Piketty-Saezがやっていて大流行していることー各国の不平等の歴史的な変化についてのデータの整備、および最適課税理論ーをずっと前に始めた人である。Pikettyブームというか不平等ブームで彼の仕事にも以前にもまして注目度が高まった矢先だったので、残念である。

今回は、2015年に出版されたAtkinsonのベストセラー"Inequality - What can be done?"で提示された15の提言が彼のホームページにあるので、それを和訳して書いておく。かなりの政府介入を許容しているのに驚きである。次回は彼のもうひとつの最近の仕事ー各国の不平等に関するデータの整備ーについて触れる。

1. 技術革新の方向性は政策決定者にとって直接的な関心事であるべきである。労働者が雇用されやすく、サービスにおいて人間的な側面が重視される技術革新を促進すべきである。

2. 政策は、利害関係者のパワーバランスをうまくつりあわせることを目指すべきである。そのために以下のことをすべき:
(a) 競争政策の実践において明示的に(所得の)配分を考慮する。
(b) 労働組合が労働者を適切に代表できるような法的な枠組みを整備する。
(c) もし存在していなければ、社会的な団体が政策決定に関与できるような社会経済諮問機関を設置する。

3. 政府は失業を減らすための直接的な目標を設定すべきである。そのために、働きたくても働き先が見つからない人のために、最低賃金での公的セクターでの雇用を保証べきである。

4. 以下の二つの要素からなる社会保障政策があるべきである。(1) 最低限の生活を保障する最低賃金。(2) 社会経済諮問機関も関与した上で合意される、最低賃金を上回る賃金についての規範。

5. 政府は、正の実質利子率が保証され、個人の保有額に上限のある、貯蓄用の国債を発行するべきである。

6. 全成人に与えられる最低限の相続額が設定されるべきである。

7. 公的な投資機構が設立されるべきである。この投資機構は、企業や土地を保有することで国家の純資産を増やしていくのが目的である。

8. 個人の所得税率は累進性が高いものに回帰すべきである。最高税率は65%まで。そして税基盤を広げるべきである(控除とかを廃止するということか?)

9. 低い所得に対して勤労所得税額控除(Earned Income Tax Credit or Earned Income Discount)を導入すべきである。

10. 遺産や生前供与には、贈与額全体に対して累進的に課税するべきである(つまり、少しづつ供与することで課税を回避することができないようにするべきである)。

11. 固定資産に対しては、時価に応じた、定率あるいは累進的な固定資産税が課されるべきである。

12. 子供への補助金(Child Benefit)は全ての子供に手厚く支払われ、その補助金は課税対象となるべきである。

13. 現在存在する社会保障制度に加えて、社会参加所得(Participation Income)が導入されるべきである。これは、子供にはベーシックインカム(BI)として適用される。
(注:Participation Incomeとうのは、Atkinsonが主張するもので、BIとの違いは、PIを受け取るためには、ボランティア活動あるいは高齢者の手助けなどのサービスを提供しなけばならない点である。このことで、BIの問題点である、労働への負のインセンティブ、あるいは受益者がこうむるかもしれない汚名を和らげることを目的にしている)

14. 社会参加所得の代替案としては、社会保障制度の拡充(金額の引き上げおよび適用範囲の拡大)をしなければならない。

15. 先進国はODA(政府公的支援)の金額のターゲットをGNPの1%とすべきである。

そのほか検討に値する提言:

(1) 家計の(住宅などを担保としない)無担保借り入れがどのくらいできるかについての詳細な調査。

(2) 民間の年金の税制面の優遇措置の是非に関する調査。

(3) 資産税(wealth tax)の導入についての調査。

(4) 世界中に散らばる全資産に対する統一的な課税システム(税率が低い国に資産を移すことによる税逃れを防ぐためだろう)

(5) 企業への最低課税額の導入。

History of Cambridge Economics Department, and Economics Itself

Economist誌の年末合併号(クリスマスと年末の2週間分を1冊でカバーする号)では、ニュースだけでなくさまざまな分野の一般的な話についての長めの記事が掲載される。もちろん、経済学についてのコラムのような記事もいくつか掲載されることが多く、楽しめる。今年は、ケンブリッジ経済学部の変遷と経済学自体の変遷をパラレルに捉えた記事(記事へのリンクはここ)があり、楽しめた。ここでは、その記事で面白かったところだけ、箇条書きで意訳していく。

  • 1885年にマーシャルが教授に就任する前のケンブリッジ経済学部では、経済学は、心理学、論理学、道徳学と同じく、「道徳科学(moral sciences)」の一部であった。「経済学」というものは独立した学問としての地位を確立していなかったといってよい。「政治経済学が倫理学から学ぶものの方が多いか、その逆か」といった問いかけがなされていた。
  • マーシャルは1903年に経済学部を独立した学部として確立すると、公平でありつつ実際の社会経済問題に関与する、技術的にすぐれた政策のアドバイザー、としての経済学者の育成に注力するようになる。1927年の財政学の試験では、大英帝国の政府支出の大きさと主要な項目の存在理由が問われた。その他にも、金(金本位制かな)の将来、株主の権利と義務、民主主義に代わる意思決定システム、といった大きな質問について3時間かけてエッセイを書くような試験が行われた。
  • マーシャルがどのような経済学者であったかは、ケインズがマーシャルのについてのエッセイの中でよい経済学者について書いた以下の文章が有名である(この文章の訳はこのサイトにあった、ケインズの「人物評伝」の抜粋を使わせてもらった)
  • 「経済学の研究は、非常に高度な専門的資質を必要とするものではない。それは、知的見地からいって、哲学や純粋科学などのもっと高度の部門と比較すると、むしろ容易な問題だ、と言えるのではなかろうか。にもかかわらず、すぐれた経済学者、いな有能な経済学者すら、類いまれな存在である。やさしいにもかかわらず、これに抜きんでた人のきわめて乏しい学科!このバラドックスの説明は、おそらく、経済学の巨匠はもろもろの才能のまれにみる結合をもたなければならない、ということのうちに見いだされるであろう。経済学者は、ある程度まで、数学者であり、歴史家であり、哲学者でなければならない。彼は記号を理解し、しかも言葉で語り、特殊なものを一般的な形で考え、その思考の過程で、具体的なものにも抽象的なものにも触れなければならない。彼は未来の目的のために、過去に照らして現在を探求しなければならない。人間性や制度のどのような部分も、彼の関心外にあってはならない。彼は、その気質において、目的意識に富むと同時に、公平無私でなければならず、芸術家のように高く飛翔しうるとともに、しかもときには、政治家のように大地に接近していなければならない。」
  • マーシャルが進めた、経済学の精緻化は、マーシャルを引き継いで経済学部長になったピグーによって更に推し進められた。例えば、ピグーは、政府の介入が、あるグループから別のグループへの所得移転という役割とは独立に、効率性の観点から正当化できるケースを考え出した。
  • ケインズも、総需要の不足を補うという方面から、政府の介入を正当化する理論を開発した。ピグーとケインズはライバルであったが、どちらも、技術的な、公平な観点に基づき、政治とは距離を置きつつも、政府の介入を正当化したという点で共通点があった。
  • ケインズは、経済学者が「歯医者のように控えめで有能な人々」となることを主張した。実際、このころのケンブリッジの学生はケインズの一般理論を読破しちゃんと理解したうえで、ケインズが関与している論争についてもきちんと理解していなければならなかった(論争について自分の意見を述べよとテストに出題されたりした)。それに比べ、一昔前は、マーシャルの経済学原論を1年かけて読んで、朝食を食べながらThe Timesを読んで、その後は何をしててもよいという感じだった。
  • ピグー・ケインズが活躍した1920-1940年にはケンブリッジ経済学部は経済学の世界の中心であったが、1940年代以降は、アメリカにその地位を奪われた。ケインズ主義への批判が高まったこともその背景にある。その後、再び経済学の主要な考え方は収斂していくが、収斂が起こった時に中心にあるのはケンブリッジでも、アメリカのケンブリッジであった。
  • 現在は、大きな考えかたについては意見の収斂が起こっていることから、経済学は大きなアイデアを追求するというよりは、細分化されたフィールドにおいて、データを駆使して、既存のモデルを微調整して、政策についての答えを導き出すというスタイルとなっている。そういう意味では、「歯医者のように控えめで有能な人々」に近づいていっているのかもしれない。
  • その一方、細分化された細かい問題に注力することで、大きな問題を忘れているというような批判もある。経済学において政治(プロセス)との相互作用の分析があまり行われていないことが一例として挙げられる。伝統的な立場は、経済学は、政治(プロセス)とは独立したアドバイスを与えることができるというものであるが、政治(プロセス)と経済政策が相互に影響しあう時にもこのような立場でいいのか。また、アメリカおよびイギリスにおいては不平等の度合いが拡大しているが、そのことは、政治的な話であり、(一時的な近似としては)経済学の外側にあるといってしまっていいのか。
  • ケインズは歯医者の例を用いたが、どこまで本人がそれを信じていたかは良くわからない。ケインズがマーシャルについて語った文章は、経済学者に歯医者以上の、大きなアイデアを生み出す役割を期待しているようにも見える。

Are there so many university staff in U.S. universities?

とても中途半端なポストなんだけど、これ以上調べる時間も気力もないので、メモ程度に書いておく。きっかけとなったのは、Twitterで見かけたこの記事である。この記事によると、東大とシカゴ、スタンフォードで、教員一人当たりの学生数は大差ないけれども、教員一人当たりの事務員の数が圧倒的に違う(東大のほうが圧倒的に少ない)というのが記事の主要なポイントのようである(記事の出だししか読めないがそんな感じだと思う)。こんなことしていいのかわかんないけれども、この記事のテーブルをコピーしてみる。
この表によると、東大では正規の教員一人当たり0.7人の事務職員がいるのに対して、シカゴ大では4.8人、スタンフォード大では5.3人もいるそうである。この記事がいいたいのは、アメリカの大学の教員が研究に集中できるのは事務職員が多くてサポート体制が充実しているからだということらしい。

これをみて、本当かな?と思った。シカゴの経済学部はマクロのエリアはみたことがあるけど、教員一人に一人以上のセクレタリーとかがいるわけではない。職業柄いろんな大学の経済学部にお邪魔する機会があるけれども、日本の大学に比べて事務室に圧倒的にたくさんの人がいるなんて思ったことはない。事務室の雰囲気は東大とか慶応と同じようなもんだ。というわけでちょっと検索してみた、というだけのことである。

シカゴは詳細な情報が見つからなかったけれども、スタンフォードの場合、ちょっとだけ細かい情報があった。2015年には11,581人のスタッフ(教員以外の職員)がいるけれども、そのうち1,389人はSLAC(国立加速器研究所)の職員なので、ちょっと別物だと思う。そのほかでは、6,248人がmanagerial and professional staff、2,881人がclerical and technical staff, 963人がservice and maintenance staff、ということであった。それぞれのカテゴリーが日本で言うとどのような職種の人たちなのかわからないけれども、狭義の事務職というと、最後の二つ、つまり、3,844人が当てはまるのではないかとも考えられる。まぁ、これでも、教授一人あたり(1.8人)では東大よりかなり多いけれども、スタンフォードややシカゴはお金のある私立の学校なので、東大と比較することがそもそも難しいのかもしれない。最初のカテゴリーなんだけれども、TAとかRAとか図書館のカウンター係とかやっている学生とかなんじゃないかと思って調べてみたところ、995人の学生が教えていて、2,004人の学生がそれ以外の補助として働いていると書いてあった。これらが確実に6,248人に含まれるとは書いてないけれども、そうなんじゃないかなぁ。

そもそもシカゴやスタンフォードは私立なので情報もあまり公開されていないし、国立大学の東大と比較するのはちょっとアンフェアだと思うので、アメリカの公立大学のトップであるUCバークレーと比較してみよう。UCの場合、かなりの情報が公開されている(興味があるなら、経済学者全員の給料も検索すれば出てくる、スターは公立にしては意外ともらっているのに驚くだろう)ので、シカゴやスタンフォードよりちゃんとした情報があった。

では基本情報から。2014年の生徒数は37,581人。うちわけは大学生27,126人、大学院生10,455ということで、東大より40%程度多い。アメリカの場合、公立大学は巨大なのが多いので(例えばオハイオ州立大学は55,500人程度。テキサスA&Mは58,500人位である)東大と人数が近くてとてもいい学校というのはバークレーくらいしか見つからなかった。バークレーのフルタイムの教員数は1,522人。フルタイムの教員一人当たりの学生数は17.8人と、東大(6.9人)の2.5倍である(もしかしたらフルタイムの教員と正規教員は正しい比較じゃないのかもしれない)。

ではスタッフはどうか?UCシステム(University of California全体のこと)のスタッフについて纏めた書類が見つかったので、それを参考にした。2010年のものだけれども、傾向を大まかにつかむのはこれで十分だろう。全職員数(パートタイムも含む)は12,154人(この数字には病院は含まれていない)。確かに、東大の2,700人に比べてむちゃくちゃ多い。但し、その内訳を見ると、大学で何らかの仕事で働いている学生が4,301人もいる。それを除くと7,853人。フルタイムの教授一人当たりでは5.2人。東大(0.7人)をはるかに上回って、スタンフォード並の高さなんだけれども、バークレーの場合、計算に使った教員数がとても少ないので、高い数字となったという面もある。例えば、東大並みの学生・教授比率だとすると教授数は3,900人。これで計算すると教授一人当たりのスタッフ(学生を除く)は2.0で、東大よりやっぱり多いけれども、5倍とかではない。

結局、何が言いたいのかわからない状態になってしまったが、日本の大学との大きな違いはアメリカの大学は学生を大量に雇っているということなのでは、と思っていろいろ検索してみたけど、中途半端になってしまったということだ。僕にとって、疑問なのは、何で、試験や宿題の採点とか、成績の計算とかいったことを大学院生に委託できないのかということだ。それができると教授のほうも学生のほうもずいぶん違うと思うんだけどなぁ。ちなみに、このポストでは、日本の大学の「事務職員」に学生は含まれていないと仮定しているが、間違っていたら教えて欲しい。

それに、本当にもっと時間があれば研究ができる教員がいるのであれば、「正しい」経済学者の態度としては、ほかの大学がより多い研究時間(ティーチング減免)やTA・RAを雇うお金をオファーして引き抜けるようにすればいいだけだと思うんだけど。

Fads Move Economists

Economist誌が、経済学の流行、のようなテーマの記事を載せている(記事へのリンクはここ)。最近流行のいくつかのキーワードがNBERワーキングペーパーの要旨でどのくらいの頻度で言及されているかを示したのが以下のグラフだ。
「DSGE」や「実験」は1985年から安定的に伸びてきているが(Time to Buildが1982年なのに1985年にDSGEという言葉が0.1%くらいのペーパーで言及されていることに驚いた)、2000年ごろから急激に伸びているのはDID(日本語ではなんと言うのだろう?)非連続回帰(Regression Discontinuity)、ランダム試行実験(RCT)などの、いわゆる最近の計量経済学の流行を反映した言葉である。また、ここ数年で急激に伸びているものとして、マシーンラーニングやビッグデータという言葉(一番右の緑の線がマシーンラーニング+ビッグデータである)が挙げられている。

Economist誌の記事では、このような流行に対してDeaton and Cartwrightが書いた、RCTはしばしば考えられているほど万能ではないというペーパー("Understanding and Misunderstanding Randomized Controlled Trials")を引用して警鐘を鳴らしている。このペーパーは別にRCTに興味がなくても、識別に関して一般的にに適用できる考えがとてもわかりやすく書かれているのでお勧めである(とはいえ僕にはちゃんと理解できているわけではないけれども)。このペーパーで指摘されているRCTの潜在的な問題点を全て議論するのは大変なのでここではやらないが、彼らが指摘したポイントのうちのいくつかは以下の通りである。

  • 実験が一回きりだと、サンプリングエラーがわからない。
  • 実験に参加した人の数が少な過ぎることが多い。
  • 理論を必要としないという利点は、理論なき軽量(worthless casual theorizingあるいはfairly story theorizingと呼ばれるもの)に陥るリスクを内包している。
  • 有意な結果が出たとしても、その背後にどのようなメカニズムが働いているかがはっきりしてないと、実験の結果をそのままほかの状況に適用して同じような結果が期待できない(External (in)validity)。
  • 背後で働いているメカニズムがわかっていないと見せかけの相関にだまされる可能性がある(一般的な相関と因果の話だ)。
  • ある政策が割り当てられた人と割り当てられなかった人が、自分はどちらなのかわからないようにする(Blinding)ことがとても難しく(ランダムにいい学校と悪い学校に子供が割り当てられる実験を考えてみるとよい)、それぞれのグループが、割り当てに応じて行動を変えたり、割り当ての結果を変えようと行動したりしようとすると、結果をどう解釈していいかわからなくなる。
結局は、ありきたりな話だが、RCTから得られた結論も、他の手法を用いた実証研究結果と照らし合わせて解釈されなければならないというのが結論のようだ。

Economist誌は、RCTが流行ることで、重要だけれどもRCTが使えないようなテーマ(金融政策、社会規範)に使われるリソース(人・金)が減ることも懸念している。

僕はマクロ経済学を研究しているので、この懸念は理解できる。大まかに言うと、実験で簡単に効果を示しにくいものであればあるほど、(少なくとも理論的には)その効果が大きいものであることが多いので、効果を示しやすいものにリソースがシフトすればするほど、言葉は悪いが、ちまちましたものにリソースがより割かれてしまう恐れがある。例えば、経済成長率を平均して0.1%上げることができる政策(そのようなものがもしあれば)から得られる生活水準の向上は、多分、かなり多くのちまちまとした(しかしエビデンスはしっかりしている)政策変更による利益を上回るのではと思う。エビデンスベースの政策を進めているイギリスで、EU脱退が議論された際に、EU残留派(ほとんどのまともな経済学者)がEUにいることで得られる貿易上その他の利益が説得力を持って示すことができなかったのが、個人的にはいい例だと思う。もちろん、データからぜんぜん効果を示すことができないような大風呂敷を広げるだけではしょうがないというのは承知なんだけれども。もちろんここで行っているのは実験をやらないマクロ経済学者のポジショントークと思ってくれてよい。

Invitation to Podcast

長くアメリカに住んでいるのだけれども、一向に英語が上達する気配がない。何でだろうと考えてみたのだけれども、理由のひとつは、研究者だと人と話したりすることが少ないからではないかと思うに至った。大体の時間は一人でコンピューターの前に座っているか、論文を読んでいるか、紙に数式を書いているかだ。発表をするのはそれほどしょっちゅうではないし、人の発表を聞くことは多いがそもそもそんなに問題のない経済学しか聞く機会がない。

できるだけあいてる時間に英語に自分をさらす手段の一つとしてとにかくPodcastを聞きまくり始めた。とはいえ、経済がらみのPodcastもとても充実しているので、結構経済関連のものも聞いてしまう。お気に入りはNPR (National Public Radio)のPlanet Moneyだ。経済学というわけではなく、経済関連なら何でもカバーするが、経済学者が出てくることもある。例えば、世界に石油がなかったら世界はどのようになっていただろうという議論をした回では、NorthwesternのJoel Mokyrが出てきた。書いているものから察すると面白い人なんだろうと思っていたが、話しっぷりも面白かった。1エピソードが1時間くらいのPodcastが多い中、1つ20-30分くらいというのも気晴らしや散歩のお供にちょうどよい。

最近のエピソードでは、(僕が聞き始める)昔のエピソードの再放送だったのだけれども、Chris UdryとDean Karlanのイェール大ペア(とガーナの2人の共著者)による、ガーナにおいてランダム化比較試験を行った結果を基にした2014年のQJEのペーパー("Agricultural Decisions after Relaxing Credit and Risk Constraints")について扱った。多分開発を専門とする人には知られた論文なんだろうけど、他分野なので面白かった。この論文では、アフリカの小規模農家がビジネスを拡大できない理由は、投資するお金がないからか(credit constraint)、それとも失敗するリスクを恐れているか(risk constraint)を知るために、ガーナの農家にランダムに以下のものを提供して、農家がどのように反応するかを見た。(1) 250ドル相当の現金。使途は問わない。(2) 天候リスク保険(雨があまり降らないで農業がうまく行かなかった場合には保険金が支払われる)、(3) (1)+(2)。

この回のPlanet Moneyではこの論文を紹介するのだけれども、イントロとして、アフリカ(レソト)でりんご作りをしている農家に話を聞くところから始まっている。この農家は、りんごを作るのがうまく、ビジネスを拡大すれば需要はあると思われるんだけれども、彼はりんご作りビジネスを拡大する代わりに、家畜を飼うことにした。理由は、雨があまり降らなくてりんごがあまり取れなかったときのリスクが怖いので、(天候にあまり左右されない)家畜に分散投資するというものである。資産の半分をある企業の株式に投資して、残りを国債に投資するようなものだ。このような例や、ガーナ人に保険という概念をわからせる苦労話などを挟んでくれるので、気軽に楽しく聞ける。

その他にも、UdryやKarlanが出てきて話したりするのも楽しい。Udryのオフィスがガーナ関連のモノだらけなどというエピソードも語られる。

彼らの実験の結果は、現金を受け取った農家は投資をあまり増やさなかった。その一方、天候リスク保険を(買うチャンスを)与えられた農家は、投資を増やした。その際、追加的な投資に必要なお金はどこかから持ってきた。これらからわかるのは、この実験の対象となったガーナ農家は、リスクを恐れて規模を大きくしていないのであり、お金は必要ならどこかから調達できる、つまり、強い借り入れ制約に直面しているわけではない、ことである。

日本語だと長時間ドライブとかがあまりないからPodcastは流行っていないのだろうか?日本語でも経済学Podcastとかあれば通学・通勤中に聞く人も多いと思うけど。

Essay on Macro Empirics, Part 1

前回のちゃんとしたポストからすっかりあいてしまった。まぁ、定期的な更新を期待して待っている読者がいるような人気ブログというわけではないのだけれども、やっぱり間が空くと申し訳なくなる。夏は学会や休暇やも多く、かつ、おそらく切りのいい夏前にジャーナルに論文を出す人が多いせいか、夏前に手持ちの論文をレフェリーに送りつけるエディターが多いせいか、夏前にたくさん来るレフェリー依頼をさばいていると、なかなか新しい論文を読んだり、新しいネタを探す時間がなくなってしまう。

というわけで、今回は、(特にマクロ)経済学において、データをどのように使うのかについて簡単なエッセイを書いてみる。あまり考えずにつらつらと書くので後で加筆・修正する可能性も大なことをお許し願いたい。まぁ、自分自身、データに強いわけではまったくない(では何に強いかといわれると困ってしまう)ので、間違っているところとかを指摘してもらえるとそれもうれしい。エッセイのようなものなので、つらつら、構成も考えずに書いていく。

個人的に経済学がほかの社会科学より圧倒的に優れていると思うのは、個人(あるいはその他の意識決定主体)がどのように決定を行うか、そのような個人が集まっている経済(あるいは社会)にどのようにその決定が反映されるかを緻密に分析できる理論体系があるということと、その理論を検証するためにデータを注意深く見るという、両輪だと思う。マクロ経済学についてもそのような経済学の強みは生かされていると思う。では、どのように理論とデータが関連しているかを、例を使ってできるだけわかりやすく書いてみたい。何を例に使うかをちょっと考えてみたのだけれども、ここでは、政府支出乗数(政府支出を1円増やした時にGDPが何円上がるか)の推定を例に使ってみる。

なぜ、政府支出乗数が重要なのか?政府が支出を行う際には、税金や国債の発行(=将来の増税)で原資を調達した後で、何かへの支出を行うので、その支出が本当に経済(=お金を出す人々の)の役に立っているかを測りたい。その指標の一つとして使われるのが、政府支出乗数である。いわゆる、投資のリターンのようなものだと考えればよい。リターンが大きければ実施すればよいわけだし、リターンが小さければ、何でこんなことをするのか考える必要があるだろう。

「政府支出を1円増やした時にGDPが何円上がるか」というのは簡単にデータから計算できるように感じられるかもしれない。毎年、政府がいくら支出して、GDPがどれだけ上がったか、の相関を計算すればいいじゃないか、と考えるのが第一歩である。まずはこの第一歩を行うことは重要なんだけれども(ちょっと前に聞いたPodcastにJoshua Angristが出てたんだけれども、彼も、洗練された識別を行う前にOLSを行うことが第一歩だといっていた)、これじゃあぜんぜんダメと一般的に考えられている。ちなみに、本当にこのように政府支出乗数とかを計算して大丈夫と思っている人もいる。困ったもんだ。では、なぜまずいのか?いろいろあるんだけれども、「いろいろ」というのを以下ランダムに見ていく。

まず、「完璧な実験」は何かということから考えてみよう。2016年1月1日の日本をスタート地点として、政府支出を1円上げなかった時のGDPと、政府支出を1円上げた時のGDPを比較できれば完璧なのである。実際は、2016年には1円上げなかったとしよう。この場合、前者のデータは存在している(これが歴史なので)が、後者のデータは存在していない。後者のような状況(実際の歴史と異なる)をcounterfactual(反実仮想)という。この2つのデータがもしあれば、両者でGDPがいくら違うか計算すればこれで終わりである。但し、実際には、反実仮想のデータは存在しないので、どうやってそれに近い状況を作るかというのが経済学者が玉を悩ませるところなのである。それに近い状況を作るのにいくつもの方法はあるが、どれも完璧ではないので、いろんな方法の長所・欠点を比較検討したり、いろいろな方法で計算された結果を比較することで、完璧ではないにしても完璧な状況で得られるであろう数字に近づける努力を僕らは延々と行っているといえるかもしれない。

じゃ、不完全な方法としてどのようなものが考えられるか?例えば、2015年より2016年のほうが政府支出が1円多かったとしよう。じゃあ、2015年のGDPと2016年のGDPを比較すればいいじゃん、と考えるかもしれない。最初にあげた方法(毎年、政府がいくら支出して、GDPがどれだけ上がったか、の相関を計算する)はまさにこれである。では何でダメなのか?2015年と2016年はおそらくいろいろな面でぜんぜん違うからである。2016年はオリンピックがあって盛り上がったので、GDPが多かったかもしれない。それを考慮に入れなければ、政府支出乗数は大きく出てしまう。もちろんそれ以外にも2015年と2016年を単純に比較できない理由は山ほどある。

それらをコントロールする方法として、「たくさんの年のデータ」を使うことが出来る。オリンピックは何回もあったので、オリンピックの時にはどのくらいGDPが上がるかが長い歴史のデータから計算できれば、2015年と2016年のGDPの違いから「オリンピック好景気」分を引いた分が政府支出乗数といえるかもしれない。ちょっとかっこつけた言い方をすれば(計量経済学にはかっこつけた言い方が多くて門外漢には困る…)オリンピックダミーを入れて回帰を行うのがこれである。但し、日本のデータは限られているので、何もかもコントロールすることはできない。例えば、2016年はSMAPが解散したけど、その効果はどうやってコントロールするんだ、とか(まぁ、過去のジャニーズグループの解散を使ってもいいけど、セミナーでは、「SMAPは国民的アイドルだから違う」という人が出てくると思う)。

では、日本のデータは限られた年の分しかないという制約をどうやって乗り越えるか?ひとつの方法が、たくさんの国のデータを使うという方法である。日本で50年分しかデータがなくても、100カ国あれば5000のデータポイントがあることになる。但し、たくさんの大きく異なる国を一緒くたにしていいのかという問題が起こる。そういう問題を不完全ながら回避するためにOECD諸国(いわゆる先進国)のデータだけ使うとかもできるけれども、日本とスウェーデンを一緒くたにしていいの?という疑問は残る。データポイントは多くなったけれども、日本とスウェーデンがいろいろな面で異なるということを考慮しすぎると、日本とスウェーデンで別個の回帰分析を行っているだけで、「多くの国を使うことによるデータの大きさ」が生かせなくなるからだ。

これと関連した方法は、国のデータでなく、例えば県別のデータを使うという方法もある。例えば、神奈川県だけ2016年に他の県より1円多く支出したとしよう。この場合、オリンピックやSMAP解散の効果は考える必要がない(実際は、おそらくセミナーでは、SMAPのファンの数が各県で違うからSMAP効果すら各県で異なるのではと聞かれるだろう)。全ての県で2016年にそれらは起こっているのである。このような状況は、各州が経済政策においてかなりの自由度を持っているアメリカで結構見られる。ある州が他の州とかなり異なる経済政策を実施する(最近の例で言えば、オバマケアの一部の導入を拒否したり)と、経済学者は色めき立つのである。このアプローチの問題点は何か?もし各県がかなり似ているのであれば、最初にあげた「完璧な実験」に近いのではないか、と思うかもしれない。但し、残念ながら、おそらく神奈川県が他県と似ていると考えるのは難しいであろう。それに加え、このようなアプローチにはもっと根本的な問題点がある。もし神奈川県の政府支出が大きかったことによって、神奈川県でビジネスが他県よりしやすくなったのであれば、もしかしたら企業が活動を東京都や千葉県から神奈川県にシフトしたかもしれない。この場合、神奈川県のGDPはより増え、東京都や千葉県のGDPはより下がることになる。但し、これは、ビジネスが移動しただけであり、国レベルで図りたい政府支出の経済効果とは異なった値(神奈川県のGDPの伸びのほうが大きく出てしまう)が求められてしまう。また、国全体でGDPが1円上がった時に日本全体の経済がどのように影響を受けるかというのは、おそらく神奈川県にのみ政府支出が増加した状況と大きく異なる可能性もある。いわゆる、外的妥当性(ある状況で得られた推定結果を他のもの(より広い文脈)に使っていいか)という議論である。

この例と関連した話を挙げておくと、例えば、ある小さい市(熱海市としよう)において政府支出を1円増やすというようなことは「実験」として可能かもしれない。但し、この場合も、熱海市において行われた「実験」から得られた政府支出乗数を日本全体の「完璧な実験」の結果と近いと考えてよいかというと、ここには巨大なギャップがあることがわかるであろう。ここで得られた実験の結果は、熱海であること、と熱海であることに関して目をつぶっても、仮想現実になっていないという問題点を乗り越えなければならない。特に、実験ができるような規模では、日本全体で政府支出が増加したときのマクロ的な効果がいろいろ出てこないことが容易に推測できるので、外的妥当性に大きく問題があると思う。

長くなってきたが、ここまで挙げた話は比較的簡単な話である。もっと重要な話は、これからなのだが、長くなってきたので、導入だけ書いて終わりにする。また、日本のデータに戻る。オリンピックやSMAPの解散が無かったとしても日本のデータをそのまま使うのに問題があるのは、次の理由にもよる。そもそも政府支出が増えるのは不況期である。不況は普通数年で終わる一方、政府支出の実施には時間がかかる。よって、政府支出が実施されるころには、経済が改善しつつあるかもしれない。この場合、政府支出によってGDPが改善されたのではなくても、そのままデータを見ると政府支出が増えたおかげでGDPが上昇したというストーリーと整合的なデータとなってしまう。このような問題を回避するにはどうすればいいのだろうか?とりあえず今日はここまでにしておく。

Economist on Six Big Ideas in Economics

3週間前から、Economist誌で、経済学における6つの重要なアイデア、というシリーズが連載されている。選ばれた6つは以下の通り。

1. アカロフの情報の非対称性 (http://econ.st/2a8xmGS
2. ミンスキーの金融サイクル (http://econ.st/2amLUH7
3. ストルパー・サミュエルソンの定理 (http://econ.st/2aHaTE3
4. ケインズ乗数(http://econ.st/2bl1G1J
5. ナッシュ均衡(http://econ.st/2vSZZDb
6. マンデル・フレミングのトリレンマ(http://econ.st/2cm0EXB

最新号はストルパー・サミュエルソンの定理である。ここでは、それぞれについて中身を書いたりしないけれども、専門家でなくてもわかるように書かれているし、それぞれのトピックについて、その関連トピックについても書かれているので、学部生などにぜひ読んで欲しいシリーズである。例えば、アカロフの回は、レモンの話だけではなく、スクリーニングやシグナリングの話もわかりやすく書かれている。次回は、ケインズ乗数、マクロ経済学をちょっとやっている身としてはとても楽しみにしている。

専門家でも、アカロフのペーパーがAERやREStudに簡単すぎる(trivial)としてリジェクトされたり、JPE にもリジェクトされたあとに、QJEに掲載されたという話や、ストルパー・サミュエルソンのペーパーがAERに、適用範囲の狭い(narrow)理論だといってリジェクトされたという小ネタで楽しめる。

Economistの1970年代ケインズ経済学的な姿勢にはしばしば同意できないこともあるけれども、こういう記事をスタッフが(経済学者に見てもらっているかもしれないけれども)書けるというのはすごいことだと思う。日本の雑誌じゃあ無理なんじゃないかな。

Memo from NBER Summer Institute

夏はたくさんの学会に出たり休暇をとったりであまりブログのエントリを書くきっかけがつかめないので、最近学会に出たときのメモを日本語にして載せてみることにした。NBER Summer Instituteのものにしてみた。NBER Summer Instituteはマクロ(やその他応用分野)の学会では最高のものだと思う。NBER自体についてや、全体の傾向について(NBER Summer Instituteはいろいろな分野の早い段階のいいペーパーを見ることができるので、近い将来のトレンドをつかむのに役に立つ)はまた改めて後で書くことにするけれども、とりあえず見たペーパーのメモを日本語にしてみたもの(それに批判などは取り除いた)を掲載してみる。

"Monetary Policy, Heterogeneity, and the Housing CHannel" by Hedlund, Karahan, Mitman, and Ozkan
家計の異質性があるNKモデルに、住宅市場を追加。住宅の売買には調整コストがあり、また、住宅を買うときのモーゲージの金利は名目金利と制限されているので金融政策によって名目金利が変わるとモーゲージの金利も変わる。さらに、モーゲージの破産も可能。大きな住宅ローンを抱えた家計もいることで金融政策の効果がどのように変わるかを分析。

"Credit Growth and the Financial Crisis: A New Narrative" by Albanesi, De Giorgi, and Nosal
Main and Sufiのペーパーでは、大不況期の始まる前にサブプライムローンの借り手が多かった地域で、大不況期の前に住宅ローンの残高が大きく増加したことから、サブプライムローンの貸付の増大が大不況の引き金になったと主張している。このペーパーではそのようなストーリーが間違っている可能性を主張する。ニューヨーク連銀が持っている個人レベルの借り入れデータを見ることで、サブプライムローンは主に若い人が借り手であること、若い人は自然と住宅ローン借入額が増えていくことから、サブプライムローンが多い地域で住宅ローンの残高が増えるのは当然であり、年齢による影響をコントロールすると、残高が増えたのはサブプライムではなくてクレジットスコアの高いあるいは中ぐらいの、いわゆるプライムローンであることを示した。

"Financial Distress: Incidence, Persistence, and Policy" by Athreya, Mustre-del-Rio, and Sanchez
資産がなかったり、破産したり、といういわゆる金融的困難は若い人に多いこと、また金融的困難に陥った人はその状況に止まる確率(継続性)が高いことをパネルデータで示す。その上で、家計に異質性のあるモデルに借り入れやデフォルトを導入したスタンダードなモデルでは、そのような金融的困難の継続性を再現することが難しいことを示し、モデルのパフォーマンスを改善する方法も提示する。

"Macroeconomics and Heterogeneity" by Krueger, Mitman, and Perri
もうすぐ出るHandbookの章のひとつ。家計に所得および資産の異質性がある一般均衡モデル(Aiyagariモデル)に、時間割引率の異質性を導入すると資産で見た下位の40%は全く資産を持ってなく、上位20%が80%以上の資産を保有しているというアメリカの資産分配の不平等性が再現できることを示す。データ(あるいはデータを再現したモデル)においては資産の不平等性は高くても所得・消費の不平等性はそこまで高くないので、資産が少ない家計により所得が配分されるような再配分政策を行えば、それらの家計の消費が大きく増加するので、総需要喚起の効果は代表的個人モデルよりずっと高いことも示す。

"(S)Cars during the Great Recession" by Attanasio, Larkin, and Ravn
個人の異質性のあるモデルに自動車の売買をフィーチャーしたモデルを構築する。一般的に景気循環における耐久消費財の動きは非耐久消費材の動きよりずっと大きい。さらに、自動車の生産は他の耐久消費財よりさらに大きく景気に応じて大きく動く。CEX(アメリカの消費のマイクロデータ)によると、大不況の前までは、自動車の売買の変化(extensive margin)が自動車生産の動きの大部分を説明できていたが、大不況においては、自動車を買う人の数(extensive margin)だけでなく、買った人が新しい自動車に払った額(intensive margin)も大きく減少した。このような大不況時における自動車の動きを説明できるショックがあるかをモデルを使って探してみたが今の所見つかっていない。

"Household Credit and Employment in the Great Recession" by Mondragon
地域レベルのマイクロデータを使って、大不況期に、融資が大きく引き締められた地域ほど就業者数が大きく減少したことを示した。

"Mortgage Debt, Consumption, and Illiquid Housing Markets in the Great Recession" by Hedlund and Garriga
家計に異質性のあるモデルに、現実的な住宅の売買を加えて拡張したマクロモデルを構築する。住宅の売買のある既存のモデルに比べて新しい特徴は、不況期には家を持っている多くの家計が、住宅ローンを払えなくなることで家を売るのだけれども、多くの人が売りたいので売れるまでに時間がかかってしまう、あるいは家を早く売るために家の価格を割引するという行動を再現できることである。実際、大不況期には家を売るまでにかかる時間が大きく伸びたし、住宅価格は大きく下落した。このモデルを使うと、家を早く売りたい人が割引する、住宅価格がさらに下がる、住宅価格の下落がさらに家計を苦しくするという乗数効果が出てくるので、住宅市場を襲った最初のショックが乗数効果で拡大される。

"The Fiscal Multiplier" by Hagedorn, Manovskii, and Mitman
家計の異質性があり、ゼロ金利制約(ZLB)もあるNKモデルを使って、政府支出の乗数効果を分析する。まずは、ZLBのある一般的なNKモデルでは、価格水準の不決定性という問題があるが、財政政策のルールを固定することで不決定性を解決できることを示す(これはFiscal Theory of Price Levelなのではという気もするが)。その上で、異なる財政政策ルールのもとで、政府支出の乗数を計算する。

"Marriage, Social Insurance, and Labor Supply" by Low, Meghir, Pistaferri, and Voena
アメリカでは1996年に、(18歳未満の)小さい子供がいる低所得家計への補助金政策が変更され、以前では最も若い子供の年齢が18歳未満であればいつまででも補助金を受け取れたのが、1996年以降は5年間しか補助金が受け取れなくなった。このような改革の効果を分析するために、消費や貯蓄、労働供給があるスタンダードなライフサイクルモデルに、内生的な結婚・離婚の決定を加えて拡張する。

"The Disability Option: Labor Market Dynamics with Macroeconomic and Health Risks" by Wiczer and Michaud
公的傷害保険(Disability Insurance)を利用する人の割合は、近年大幅に上昇した。このペーパーでは、個人が、健康に与える影響が異なるいろいろな職業があってそれらのから職を選び、必要があれば公的傷害保険を申請するという要素を加えたライフサイクルモデルを使って、公的傷害保険を利用する人の増加の理由を分析する。

"Covariance Structure of Household Income" by Barnett, Panousi, and Ramnath
PSID(アメリカのパネルデータ)でカップルの二人の賃金及び労働時間の相関を見た。賃金は正の相関があり、労働時間は負の相関がある。相関は1980年以降上昇している。相関を無視すると1980年代以降の賃金の分散の上昇の大きな部分が見落とされてしまう。また、所得税申告データを使って労働収入とビジネス関連の収入の相関も見た。負の相関がある。つまり、ビジネス活動は労働収入の動きを打ち消すように動く。

"The Implications of Richer Earnings Dynamics for Consumption and Wealth" by De Nardi, Fella, and Paz Prado
Guvenenたちが所得税申請データを使って推定した複雑な労働収入ショックをスタンダードな家計の異質性のあるライフサイクル一般均衡モデルに導入して、消費や資産の不平等性がどのように影響を受けるかを分析した。最近の研究で、消費の分散は年齢とともにゆっくりではあるがほぼ線形に増加することが示されているが、しばしば使われるAR(1)ショックを導入すると消費の分散は若い時に大きく上昇するとともに年齢に対してコブ型を示してしまい、データと異なる。Guvenenたちが推定した労働収入ショックを使うと、消費の分散は年齢とともにデータのように上昇する。しかし、資産の不平等性はAR(1)を使った時とあまり変わらない。よく知られている通り、スタンダードなモデルでは資産の極端な集中を再現できないが、それは、Guvenenたちの労働収入ショックを使っても同じであった。

"Optimal Automatic Stabilizers" by McKay and Reis
個人の所得に異質性があり、失業のリスクもあるモデルに、名目摩擦を導入したNKモデルにおいて、最適な失業保険のレベルを分析する。名目摩擦がある結果、消費を増やして総需要を増やすことでGDPの触れを小さくすることができるケインジアン的なモデルにおいては、最適な失業保険のレベルは、そのようなチャンネルのない通常のモデルに比べて高くなる。失業者は所得が増えれば消費も増える(MPCが高い)ので、高いレベルの失業保険は総消費の動きを安定させる効果があるからである。

"Tax progressivity, Performance Pay, and Search Frictions" by Abraham and Fostner
賃金が内生的なモデルを使って所得税の累進性を分析する。労働者は次々と別の企業に転職することで賃金が上がっていく。また、労働者の生産性は努力によって上がっていくが努力は正確には企業には観察されない。よって企業は賃金が上がっていく長期契約をオファーすることで努力を引き出す。高い累進性のもとでは、低い賃金をオファーし、利益は大きくなり、努力のレベルが高くなる。

"Rethinking the Welfare State" by Guner, Kaygusuz, and Ventura
家計に二人の労働者がいる不完備市場マクロモデルを使い、社会保険政策(累進式所得税および所得移転政策)を分析する。まずはモデルをアメリカ経済にカリブレートし、その上で、代替的に、負の所得税と定率所得税を導入してマクロ経済および厚生に与える効果を分析する。アメリカのパネルデータによると、よく知られている通り男性の賃金の分散は年齢とともに線形に増加するが、女性の賃金の分散は年齢とともに上昇しない。この特徴は男性も女性も、独身でも結婚していても同じ。家計全体の賃金の分散も年齢とともに上昇するが分散のレベルは結婚して共働きの家計の方が0.1程度低い。カップルの二人の賃金と労働時間のの相関はU型になっている。モデルはライフサイクル、結婚しているかシングルかはは外生的に決まっている。二人のメンバーがいる家計は両者の効用の合計の最大化する。

"Universal versus Targeted Preschools: An Optimal Tax Approach" by Abbott and Sachs
ある一定のフィーで公的保育園をすべての子どもに提供するという政策を実施するとして、どのようにフィーを設定すべきか分析する。現在のアメリカでは60%程度の子供が保育園に行っている。内訳としては公的保育園が1990年の20%から35%まで上昇。私的保育園のシェアは25%。保育園に入る子どもの人数を、民間保育園のクラウディングアウトや労働供給への負のインセンティブを考慮しつつ最大化する。税率は固定し、フィーを所得等に応じて変化させ、最適なフィースケジュールを探す。最適なフィースケジュールの元では保育園に入る子供の数は12pp上昇する。最適政策の下では、低所得の家計には補助金を払う。子供を保育園に送り迎えしたりするのにかかる費用を補填しなければ低所得家計は子供を保育園に送らないからである。所得の高い家計は高いフィーを払う。

"Macroeconomic Effects of Medicare" by Conesa et al.
家計の異質性のあるOLGマクロモデルでメディケアを廃止して何が起こるかを分析。メディケアを廃止すると高齢世代はメディケイドをより使うようになるのでメディケアの1ドル減少は0.5ドルの節約になる。

"How does Unemployment Affect Consumer Spending?" by Ganong and Noel
Chase銀行に口座を持つ全ての人の口座データを使って失業(賃金や失業保険を銀行振り込みで受け取る人については、口座の動きを見るだけで、いつ失業して、いつ失業保険を受け取ったかを把握できる)が消費に与える影響を分析する。失業した時には平均で消費額は5%減少する。さらに、失業保険が切れる6ヶ月後まで消費は緩やかに減少したのち、6ヶ月後に消費は急に11%下落する。このようなスムーズでない動きは通常のマクロモデルでは再現できないことを示す。通常のマクロモデルでは消費は失業時に下落した後は失業保険のあるなしに関わらず緩やかに減少してゆくはずだからだ。その上で、1つの解決策として、6ヶ月が経った時点で職が見つかる確率を実際よりかなり高めに見積もっていると仮定するとデータで見られる消費パターンが再現できることを示すが、このような極端な楽観は正当化しづらい。

"The Impact of Consumer Credit Access on Employment, Earnings, and Entrepreneurship" by Herkenhoff, Phillips, and Cohen-Cole
個人レベルの各種の雇用のデータとクレジットスコア関連のデータをリンクさせることで、クレジットヒストリーから過去の破産(破産から10年たったらクレジットヒストリーから過去の破産の記録は消さなければならないとアメリカでは法律で決められている)が消えることの雇用への影響を分析する。クレジットヒストリーから過去の破産が消えると、ビジネスのための借り入れは増加し、起業する人の数も増えるが(信用アクセス効果=過去の破産の記録がなくなることで金融機関からの借り入れがしやすくなる)、起業をやめてフォーマルな職に就く人の数も増える(信用チェック効果=多くの職では採用の際にクレジットヒストリーをチェックするので、クレジットヒストリーに破産が残っていると採用されづらい)ので起業者全体の数への効果は相殺される。

"The Life-Cycle Distribution of Earnings and the Decline in Labor's Share" by Glover and Short
マクロ経済学のモデルで通常使われるコブダグラス生産関数では、労働収入シェア(労働者が受け取った賃金の総額のGDPに対する比率)は一定になるが、アメリカの労働収入シェアを見ると1990年ごろから低下し続けている。それと同時に労働力の高齢化が進行している。もし、年をとった人は雇用者に対する交渉力が弱くて(ある企業に特有の技能しか習得していなくて他の企業に移れない場合、賃金を下げられても転職できない)、生産性を下回る賃金しかもらえていない場合、高齢化でそのような高齢者が増えてくると生産性で見た労働収入シェアは一定だけれども、実際の賃金で測った労働収入シェアは減少するという結果を導くことができる。このようなストーリーでアメリカにおける労働収入シェアの動きを説明するには個人の企業に対する交渉力が年齢とともにどのように変化しなければならないかを推定し、およびそのような交渉力の変化を説明できるモデルを構築する。

"Consumer Revolving Credit and Debt over the Life Cycle and Business Cycle" by Fulford and Schuh
ニューヨーク連銀のクレジットカードデータによると2007-2009年には平均のクレジットカード利用限度額が大きく減少し(14000ドルから10000ドル)、借り入れ額も幾分減少したが、借入額と限度額の比率(=利用比率)は安定していた。どのようなモデルであればこのような動きを再現できるかを考察する。鍵となるのは、常に借入限度額いっぱいまで使っている(ので利用比率は常に100%である)個人や、借入限度額の一定比率を支払いに使用する(ので利用比率は安定)個人の存在であると主張する。